「ノヴェンバー・ステップス」

嘗てニューヨーク・フィルハーモニックは創立125周年記念祝賀コンサートにむけて世界の作曲家に作品を委嘱した。その作曲家とはロディオン・シチェドリン(当時のソ連)、カールハインツ・シュトックハウゼン(独)、アーロン・コープランド(米)、ウイリアム・シューマン(米)そして日本の武満徹だった。そして武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」がニューヨーク・リンカーン・センターにおいて今日から53年前の1967年11月9日初演から4日間、小澤征爾の指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック、ソリストとして鶴田錦史(琵琶)と横山勝也(尺八)によって演奏された。この演奏により武満徹は世界のタケミツとなった。

武満徹(1930.10.8~1996.2.20)は今の東京都文京区で生まれ、14歳のとき東京大空襲で家を焼かれ埼玉県へ勤労動員として移り、過酷な肉体労働の毎日を過ごす。そんな中、武満徹の生き方を決定づける出会いがあった。この時代に流れる音楽といえば軍歌しかなかったが、ある見習士官が一曲のシャンソンのレコードを聴かせてくれた。それは「パルレ・モア・ダムール(聞かせてよ、愛のことば)」だった。この曲を聴いた武満徹はとても感激し、もし戦争が終わったら音楽家の道を目指そうとつよく思った。

しかし、武満徹の実家はけして裕福ではなく楽器を買うことも音楽学校へ進む余裕さえなかったが、音楽家への道を諦めることはなかった。自分でボール紙でピアノを造ったり、知人の家でピアノの音を聴くと飛び込んで弾いたというほどだった。そして音楽の専門学校へ行くのではなく、音楽の先生の家へ行って見よう見まねで作曲を修得していった。そして20歳のとき実質的なデビュー作「ピアノのための二つのレント」が読売ホールで初演された。

だがこの作品に対して音楽以前という評に武満徹はショックを受け思い悩み絶望する。今も「ピアノのための二つのレント」の自筆譜は見つかっていないという。そのころ武満徹は結核を病む。四年の闘病生活ののち「弦楽のためのレクイエム」を作曲する。自分が病で死に向かうのではという不安を抱きながらの渾身の作だった。1957年の東京交響楽団の委嘱作品として「弦楽のためのレクイエム」が演奏されたその二年後に録音を聴いたストラヴィンスキーが激賞しあらためて評価されるようになった。

武満徹の音楽に大きな転機となったのは日本の伝統的な楽器との出会いだった。それまで武満徹は日本的なるものへの忌避があった。それは戦中戦後をとおして日本の在り方つまり軍国主義の不条理に対する嫌悪と軍国主義から民主主義へ変身する日本の容貌に対する懐疑に連動している。やがて映画の仕事と初めて関わることになる。最初の映画は1962年の小林正樹監督の「切腹」である。そこでは日本楽器でなければ表現できないことを直感し、その可能性を追求するようになる。伝統的な日本楽器では琵琶と尺八とは一緒に演奏することはないが、敢えて武満徹は伝統に挑戦し新しい響きを創造した。そして「琵琶と尺八のためのエクリプス」を作曲する。

この「琵琶と尺八のためのエクリプス」に感動した小澤征爾はオーケストラと日本楽器のための曲を書くように武満徹に薦める。武満徹は創作に悩み呻吟の末に作曲したのが「ノヴェンバー・ステップス」だった。そして1967年11月9日のニューヨークでの初演へと繋がっていく。

私は武満徹の音楽の原点は戦中に聴いた一曲のシャンソンだと思う。抑圧された戦中の少年が聴いたシャンソンに一条の希望を感じた体験、それが武満徹を動かしたのだと思う。

武満徹はオーケストラのための音楽だけでなく、多くの映画音楽や合唱曲、「死んだ男の残したものは」、「燃える秋」、「翼」、「小さな空」などの歌も作曲している。どんなジャンルの音楽も優劣はないのだという武満徹の言葉をどこかで読んだことを思い出した。

 


武満徹の少年期から「ノヴェンバー・ステップス」作曲までの経緯は今年10月11日に放送された番組「クラッシック音楽館」を参考にしています。

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