マグダラのマリア

30年ほど前だったかマーティン・スコセッシ監督の映画「最後の誘惑」を観てからマグダラのマリアという女性の存在がなんとなく気になっていたことを思い出す。

その後、マグダラのマリアを描いた絵画を観る機会もあったり、ダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだりしたが、彼女に対するイメージが捉えにくいだけに、益々興味が湧いてくる不思議な女性だと思う。

そもそもマグダラのマリアは実在していたかどうかだが、実在していたというのが通説だという。それでは新約聖書にはどう書かれているのだろう。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書のそれぞれイエスの磔刑・埋葬・復活に登場しているが、イエスの復活のところで私が興味を惹かれたのはヨハネの福音書20章第17節である。磔刑のあと墓に埋葬され三日目に復活しイエスがマグダラのマリアの前に現れるところで、・・・(マグダラのマリアに対して)イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。・・・」・・・と書かれている。逆説的に捉えると、この17節のイエスのマグダラのマリアに対する言葉はイエスとマグダラのマリアの親密な関係を想像させて暗示的なのである。

ところで新約聖書に教典として認められなかった文書に外典というのがあって、その外典の中に20世紀に発見されたフィリポの福音書という文書がある。この文書にマグダラのマリアが使徒としてイエスから特別に寵愛を受けていてイエスの良き伴侶としての記述があるという。そういうイエスとマグダラのマリアの関係に十二使徒の中に嫉妬していた者もいたという。特に使徒ペテロはマグダラのマリアに敵意を持っていたようである。

また、6世紀のローマ教皇のグレゴリウス一世が新約聖書の4福音書に登場するルカの「罪深い女」、ヨハネの「ベタニアのマリア」などのイメージにマグダラのマリアのイメージを重ねるような脚色をしたという説がある。こういう説を前提に考えると、上記新約聖書の4福音書のマグダラのマリアについて微妙な記述の違いがあるように思える。そういう視点で4福音書の特に復活の章を読むと色々な想像が湧いてきて面白い。おそらく4福音書の微妙な記述の違いやグレゴリウス一世の脚色から、様々なマグダラのマリアに抱くイメージが聖女と娼婦、つまり聖と俗という両義的なイメージとなって後世の絵や小説の表現となっているのかもしれない。

さて、私は様々な事柄、例えば政治や社会に起こる悪しき事柄に対して遺憾に思ったり腹立たしく思うことはあるものの、本当にそう思うかと自分の内面に自問すればそれら悪しき事柄に対して実は淡白である。多分、他者を難ずる前にある働きによって心の中で引き籠ってしまい、様々な悪しき事柄に対して淡白になる。これは一社会人としてみれば明かに私の欠点であろうと思う。しかし、この欠点は自分ではどうしても拭えない。その理由のひとつにヨハネによる福音書8章の「わたしもあなたを罪に定めない」が私の中から離れないことにあると思う。この章の7節に、ファリサイ派の人たちが姦通した女に律法を犯したから石で打ち殺すべきだとイエスに言うとイエスは・・・あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい・・・というと人々はその場から一人また一人と立ち去ったと書かれている。私の中ではこの女とマグダラのマリアのイメージが重なっていて、私の数ある欠点のひとつはマグダラのマリアのせいかもしれないと冗談も言いたくなる。

マグダラのマリアへの追慕といっていいかどうかわからないが、とりとめもなく自分勝手なイメージに遊んで今日を過ごした。

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