元日を過ごす

私の親は毎月1日と15日の日に函館八幡宮の参拝を常としていた。だからというわけではないのだが私が函館へ住むようになってできる限りこの日に参拝するようにしている。特に神道に信心しているからではなく、函館八幡宮を抱く函館山山麓の四季の自然を感じられる愉しみと、神社の近くにある谷地頭温泉を愉しむことに惹かれてのことである。今日も函館八幡宮へ向かった。

市電の谷地頭停留所を降りると道端で雪だるまが迎えてくれていた
市電の谷地頭停留所を降りると道端で雪だるまが笑顔で迎えてくれていた
函館八幡宮を包むように抱く函館山山麓はすっかり雪化粧である
函館八幡宮を包むように抱く函館山山麓はすっかり雪化粧である
いつもなら元日のこの参道は人の列をなして一杯になるはずである
いつもの元日ならこの参道で人の列で一杯になって参拝の順番を待つのだが、今日は待つことなく参拝できた。

この山麓の美しい四季の自然に抱かれた神社にもう数年参拝しているが、理屈なくほっとする気持ちになるのが不思議である。冬独特の厳しさ、春の草花の芽吹きと野鳥の囀りや昆虫の蠢き、夏の目映いほどの陽光に照らされる青い樹木、秋の静謐だが燃えるような紅葉の彩り、、、そんな四季の自然が貴重な恵みとして感じるようになったからだろうか。

ところで新型コロナウイルスについて色々考えるのだが、以前読んだ社会学者の鶴見和子さんと生命誌研究者の中村桂子さんの対談集「四十億年の私の生命(いのち)」を読み返している。南方熊楠の研究をはじめ広範な知の探求をしていた鶴見和子さんと、バクテリアや様々な菌など生きとし生けるあらゆる生命の多様性の中に人間も含まれていて永い生命の歴史物語を生命誌と捉えて研究をしている中村桂子さんのトークセッションは、新型コロナウイルス感染について考える上でとても示唆的な本である。

この本から掬い取ることのひとつの言葉は「内なる自然」だろうと思う。鶴見和子さんは・・・人間が自然の一部であること。そして、自然破壊とは外部の自然を壊すことだけではなく人間自身の破壊でもあるということに気付いたところから内発的発展論がはじまった・・・とし、中村桂子さんは・・・「内なる自然の破壊」があるが、「内なる自然」という言葉で表現されるべきものは、単に人間自身が他の生きものと同じ物質でできているので、自然の破壊は自らの破壊にもつながるというところに止まらない・・・として人間の命だけが特別で崇高だという誤謬に警句を呈している。

また最近テレビでコロナ新時代への提言というテーマで生物学者の福岡伸一さんと農業史研究者の藤原辰史さんと美学者の伊藤亜紗さんによるリモートトーク番組を観た。この番組で語られた「ロゴス(論理・言語)とピュシス(自然・身体)」は新型コロナウイルス感染について考える上で意義深いものがあった。人間は情報、政治、経済、文化、教育など高度なロゴスで成り立っている世界で生きているが、そもそも人間はアプリオリにピュシスをもつ生命体である。ロゴスとピュシスの不均衡を深めていった現代文明の必然として新型コロナウイルス感染があるのではないか、等々この番組をとても興味深く観た。

今日は函館山山麓の四季の自然の恵みやら新型コロナウイルスのことやらの雑感を綴ってみた。さていったい今年はどんな年になるのだろう。

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