今日、所用で函館市役所に行ったらたまたま1階の市民ホールで「原爆と人間展」と「函館空襲パネル展」が開催されていた。
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以下は「原爆と人間展」
「原爆と人間展」の最後に展示されていた「なぜ、原爆は投下されたか」というパネルを観ると、広島と長崎に原爆を投下しなければならない必然性が疑われても仕方がない。いったいあの戦争は何だったのか。・・・今も世界で戦争が絶えることなく起きている。
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以下は「函館空襲パネル展」
1945年7月14日、米軍グラマン戦闘爆撃機50数機が午前11時まで数時間に渡って函館に波状攻撃を繰り返した。さらに数時間後の午後2時頃、グラマン戦闘爆撃機約30機が再び来襲、函館港内や市内を爆撃した。死者500名以上にも上る函館空襲だった。北海道の輸送の大動脈だった青函航路を抱える青函連絡船が集中的に攻撃されたようである。また、旧上磯町の他、戸井、椴法華などでも被害があり函館空襲の正確な犠牲者数はいまも明らかではない。
当時、旧上磯町で10歳だった男性の体験も紹介されていた。1945年7月14日朝、空襲警報が鳴った時、既にグラマン戦闘爆撃機が飛来、家族で防空壕に避難するために玄関に座っていた。母親の膝にいた本人は爆風に吹き飛ばされた。バリバリという機銃掃射の激しい音とヒューンヒューンという弾丸の音、ガラスの飛び散る音と大きな振動。振り返ると血の海に母親が横たわり、4歳上の姉が口から泡を吹いていたという。壁を突き抜けた弾丸が母親の左脇腹から貫通し、横にいた姉も同じ弾丸で犠牲になっていた。母親は即死、姉は4時間後に息を引き取った。地獄絵図のような当時の光景がいまでも蘇ってくることもあり、その蘇る恐怖に高校生ぐらいまで苦しんだという。
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被爆体験をされた人たちや戦争体験をされた人たちの体験談は本当に貴重だと思う。原爆の日や終戦の日だけでなく日常の暮らしをとおして原爆の悲惨さ、戦争の悲惨さを知り伝えていくことの大切さを心に刻みたい。
今日のブログを見て自分のいままでの戦争・原爆に対する考えを回想することが出来た。
初めて原子爆弾について、深く認識したのは中学生の時の担任で常野聡先生が教科書以外の授業で「きのこ雲」「ピかドン」について熱く何回も話されたのを覚えている。もう一度お会いしたかったが、三年前に他界されたと聞いて残念に思っている。それから沖縄の「ひめゆりの塔」の石碑、長崎の原爆資料館、特にバスガイドさんの「長崎の鐘」を歌ってくれた時、永井隆医師の逸話を聞いたときは顔を下に向けて涙をしたことを覚えている。又、広島の平和記念資料館は明るい雰囲気で恒久平和への願いのメッセージが強く印象に残っている。いずれにしても、我々は子供や孫に戦争の悲惨さを語り継ぐ責務が有ると思っている。
とてもいいエピソードを紹介して頂きました。
日本が過去に戦争をしたことすら知らない若い世代の人もいるようです。戦争の体験をされている世代の人口はそう多くはないだけに、団塊の世代の私たちが戦争未体験なりに語り継ぐ務めがあると思いますね。