語り継ぐ

第二次世界大戦末期の1945年8月6日午前8:15、アメリカ軍によって原子爆弾(コードネーム:リトルボーイ)が広島市内に投下され、その三日後の8月9日午前11:02、同軍の原子爆弾(コードネーム:ファットマン)が長崎市内に投下された。

なお今までの歴史の中で核兵器が実際に使われたのは広島と長崎に投下された原子爆弾だけである。

そもそも核分裂を利用した核兵器である原子爆弾はマンハッタン計画によって開発されたのが発端である。マンハッタン計画というのは第二次世界大戦で連合国と戦った枢軸国のドイツが原子爆弾開発をしているのではと懸念してアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾の開発と製造を目的にアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを中心に科学者や技術者を動員したプロジェクトを指す。

そして、第二次世界大戦後の冷戦時代以降は核兵器の保有国が増え、いま世界には核兵器が約15,350発ともいわれている。

さて、いままで核軍縮に向けた世界の流れは・・・

1963年:PTBT(部分的核実験禁止条約)

1968年:NPT(核兵器拡散防止条約)

1969年:SALT(戦略兵器制限交渉)

1972年:SALTⅠ(第一次戦略兵器制限交渉)

1982年〜1990年:START(戦略兵器削減交渉)とその後のSTARTⅠ〜Ⅲ

1987年:INF(中距離核戦力全廃条約)

1996年:CTBT(包括的核実験禁止条約)

2002年:SORT(攻撃的核戦力削減条約)

2010年:新START(新戦略兵器削減交渉)

など永きに渡って核軍縮の話し合いはあったものの各国の思惑や根強い核抑止力概念によって核廃絶へ向けた進展を見る事が出来ていない。今年7月に核兵器を違法とする核兵器禁止条約が国連で採択されたものの、主要な核保有国や核の傘の下にある日本などNATOの大多数の国が不参加となっていて、まだまだ核廃絶には遠い道のりを歩まなければならない。

しかし核廃絶に向けた国連などの各国の話し合いのなかで、広島と長崎の被爆者の方々が世界に核廃絶を悲痛な言葉で地道に訴えてきたからこそ核廃絶への期待を感じさせる一歩として核兵器禁止条約が採択されたのである。

いまご存命の広島と長崎の被爆者の中には被爆体験を伝える勇気を持てずにいる方も多いときく。しかし今この時期に勇気をふるって被爆体験を語り伝えることの大切さをひしひしと感じて、残された余生に語り部として生きていくことを決意された方も多い。

さて私たちができることは何か。私は被爆の年から約4年後に生まれた。戦後生まれの私たち世代がこのような貴重な余生を語り部として被爆体験を伝えていらっしゃる方たちの言葉を子や孫に伝え、さらにまた彼らが次の世代に語り継いでいかなければならないと思う。今まで色々なメディアで色々な方々が語り継ぐことの大切さを発信している一方、日本の若い世代の中に日本が被爆国であることさえ知らない人も出てきているという。稚拙で小さなこのブログではあるが、私は被爆国である日本に生まれた人間の一人として語り継ぐことの大切さをここに書き留めたいと思う。核廃絶への遠い道のりを少しでも歩み進むためにも。

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