「夜と霧」

夜と霧
夜と霧

ナチス・ドイツは第二次世界大戦中にチェコのベーメン・メーレン保護領北部テレージエンシュタットにユダヤ人が強制的に住まわされていた居住地区ゲットーとゲシュタポ刑務所を置いていた。その全体がテレージエンシュタット強制収容所である。

ユダヤ系オーストリア人のウィーン大学教授で精神科医のヴィクトール・エミール・フランクル(1905.3.26~1997.9.2)は1942年に両親、妻とともにテレージエンシュタット強制収容所に収容され父親はここで餓死、1944年にフランクルと妻がビルケナウのアウシュヴィッツ強制収容所に移送されここで妻が亡くなる。その後フランクルはバイエルンのダッハウ強制収容所の支所テュルクハイム収容所に移送されて1945年にアメリカ軍によって開放される。

そのフランクルが強制収容所での体験を綴ったのが「夜と霧」である。日本では1956年に初版されていていまも世界で読まれている。ナチス・ドイツが非ドイツ国民で占領軍に反した人間やユダヤ人を夜間秘密裏に捉え強制収容所に送り込み、安否すら家族に知らせず、さらに家族の集団責任に拡大して家族ぐるみ捉えて一夜にして霧のように消える。この本の題名はこのことから由来している。

この本は第二次世界大戦後の戦犯裁判法廷法律顧問ラッセル卿の解説とフランクル著の本文と収容所の実態を写した写真などの資料から成っている。

ラッセル卿の解説では収容所での言語に尽くせぬ悲惨な出来事が仔細に書かれているのに対して、フランクルによる本文では収容所の出来事をあくまで精神科医としての視線で言葉を繋いでいくその行間からは人間の極限状態の心理の描写が生々しく伝わってくる。そして精神科医としての視線を超越して極限状態にあっても(もしかしたら極限状態だからこそ)愛、希望、信頼という人間が本来持っている尊厳は簡単には棄てられないのだとこの本で謳いあげている。この本はいま現在私たちが生きていく上である大切なことを示唆しているように思う。単にナチス・ドイツの所業の罪性を断じるのではなく人間とは一体何なのか、そのことを根本から考えさせられる一冊であった。

北海道の捕虜収容所
北海道の捕虜収容所

函館にも1885年に設置された函館検疫所の構内に第二次世界大戦中の連合軍の捕虜(アメリカ人、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人など)約800名(終戦時には約1600名とも)を収容した施設、函館俘虜収容所本所があった。この本「北海道の捕虜収容所」によれば函館俘虜収容所の本所(1942.12.26開設)が函館市台町(現・船見町)に、第一分遺所(1943.6.16開設)が八雲町に、第一派遺所(1943.10.1開設)が上磯町に、第二派遺所(1945.3.13開設)が亀田に、そして第一分所(1942.12.6開設)が室蘭に、第二分所(1942.11.30開設)と第三分所(1943.11.10開設)が岩手県釜石市に開設されている。

函館俘虜収容所本所に収容されていた捕虜は食事、衣服、医療など厳しい扱いだったうえ、函館船渠・函館海陸作業会社(現・函館ドック)で重労働を課せられ、監視員からの虐待もあったという。

一方、函館中央図書館に所蔵されている資料の中に「函館俘虜収容所の俘虜たちと市民の出会いを探し求めて」(函館空襲を記録する会・著)という冊子がある。収容所周辺に住む人が塩ゆでのジャガイモや代用パンなどを捕虜に提供したり、造船所で二階から転落しかかった日本人女性の職員を捕虜が抱きとめて助けて収容所長から表彰されたこともあったという。厳しい収容所生活のなか、捕虜と市民との交流もあったようである。

今日は船見町のティーショップ夕日に立ち寄った。旧函館検疫所を2006年に改修して始めたティーショップ夕日がその後閉店、千葉から訪れたご夫婦がオーナー募集の張り紙を見て決意、函館に移住して2014年にティーショップ夕日を始めたという。

ティーショプ夕日
ティーショップ夕日

この静かな美しい場所に函館俘虜収容所があった。ここで収容されていた捕虜たちはきっと家族への想い故国への想いを抱きながら函館湾の夕日を観て過ごしていたに違いない、そう想像しながら彼らが観ていたであろう函館湾の夕日をしばらく眺めて時を過ごした。

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