ハンナ・アーレント

今年6月23日にこのブログに投稿した「夜と霧」でとりあげたナチスによるホロコーストでユダヤ人列車移送の最高責任者であったアドルフ・アイヒマンは第二次世界大戦終りにヴァチカン発行のヴィザと偽名でアルゼンチンへ逃亡した。しかし1960年にイスラエル諜報部(モサド)に拉致され、1961年にイェルサレムで「人道に対する罪」、「違法組織に所属していた犯罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」など15の犯罪で起訴され、275時間に亘るいわゆるアイヒマン裁判が始まった。

その裁判の中にアイヒマンの言動や表情を冷静に傍聴し観察をしていたひとりの政治哲学者がいた。ハンナ・アーレント(1906.10.14~1975.12.4)である。

映画「ハンナ・アーレント」
映画「ハンナ・アーレント」

1963年アーレントはアイヒマン裁判の傍聴レポート「イェルサレムのアイヒマン」を刊行、雑誌「ニューヨーカー」にこのレポートを連載発表した直後、あらゆるメディア、アカデミズムなどから激しい非難を受ける。私はこの一連の事態を映画にした「ハンナ・アーレント」を2013年11月に岩波ホールで観た。

アーレントは根源的悪をなした人間がどのような人間かを自分の眼で確認したいと傍聴に臨む。しかしアーレントは尋問に答えるアイヒマンが悪魔の権化などとは全く違って、自分がなした行為による結果の責任すら感じておらず、自分で思考し判断する能力が欠如したただのナチスの小官僚であったことに衝撃を受ける。そして「恐るべき、言葉に言い表すことも考えてみることもできぬ悪の凡庸さ」とレポートに評した。この「悪の凡庸さ」という言葉が一人歩きして社会から強い非難を受け、同じユダヤ人の親しい友人からも絶縁されるという辛い仕打ちを受ける。「イェルサレムのアイヒマン」を最後まできちんと読めばアイヒマンのあるいはナチスの非道を決して認めているのではなく、欠如せる思考、欠如せる判断、欠如せる関心がごく普通の人間の無意識の中で醸成していく過程で根源悪が生まれるのではないか、そういう状況へのつまり、ごく普通の人間もアイヒマンのような人間になり得るのだというアフォリズムだとわかるはずである。

今の私たちが住むこの世界に於いてもこのアフォリズムを忘れてはならないと思う。一番恐れなければならないのは自分の中に潜む無思考、無判断、無関心なのだと。

この映画は2013年のドイツ映画賞で作品賞銀賞と主演女優賞と2013年のバイエルン映画賞で主演女優賞を受賞しているほど、アーレントを演じているバルバラ・スコヴァの演技の素晴らしさが今も思い出される。

この映画を観てから下記の二冊の本に触れた。

H.アーレント・著「人間の条件」
H.アーレント・著「人間の条件」

この「人間の条件」でアーレントは人間が社会で生きる活動力として「労働」「仕事」「活動」を挙げる。そしてマルクスが提唱した労働尊重主義によって「労働」の効率化と利便化が進むことにより社会問題の見かけ上の解決があったかのような幻想が蔓延していることを説く。つまり個々の人間が関わる「労働」という「私的領域」の支配が肥大して、本来的に人間社会が目指すべき市民の政治的、文化的、芸術的参加といった「公的領域」が喪失していくことを指摘する。1958年に刊行されたこの本は1973年刊行のユルゲン・ハーバーマス・著「公共性の構造転換」にも少なからず影響を与えていると思う。私にとっては少し難解な本であるが繰り返し読むべき本であり、個人が生きずらい現代に於いて非常に示唆に富んだ本だろうと思う。

 

矢野久美子・著「ハンナ・アーレント」
矢野久美子・著「ハンナ・アーレント」

この本はアーレントの生涯と思想の軌跡をわかりやすい文体で書かれていて、アーレントの入門書としては最適だと思う。ドイツ・ハノーファーでユダヤ人の両親に生まれ、反ユダヤのナチ支配下のドイツからフランス・パリに亡命、その後の紆余曲折はアーレントの思想を形成するに必須の生涯であった。特にアーレントと師匠ハイデガーとのいきさつは面白いし、ヤスパース、ベンヤミン、ホッファーなどとの知的交流が書かれていて当時のアカデミズムの雰囲気も感じられる。とにかくお得な本だと思う。

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