ミュシャ展

後期印象派の波が過ぎる1900年代はアール・ヌーヴォー、象徴主義、ウィーン分離派の波が台頭する。グスタフ・クリムト(1862.7.14~1918.2.6)、エゴン・シーレ(1890.6.12~1918.10.31)といった美術史に必ず名前が挙がる画家のような存在から少し離れたところにアルフォンス・ミュシャ(1860.7.24~1939.7.14)は位置している。おそらく画家というより商業ポスターのデザイナーという印象が強いためだろう。私自身もそのような印象を持っていた。

ミュシャ展
ミュシャ展・図録

六本木の国立新美術館でミュシャの展覧会があって4月7日に友人と鑑賞する機会を得た。今回のミュシャ展では一連のポスター作品の他に20点に及ぶ大作《スラヴ叙事詩》が展示されていた。もちろん一連のポスターは正にアール・ヌーヴォー作品と呼ぶに相応しい作品であり、精緻な美しさを感じるだけでなく当時にしてみれば斬新な表現手法であったろうと感じることができた。…そして20点に及ぶ大作《スラヴ叙事詩》を前にして言葉を失った。

ミュシャはオーストリア・ハプスブルク帝国領モラヴィアのイヴァンツェ(現在のチェコ共和国東部)で生まれている。チェコ共和国は1620年から約300年間、オーストリア・ハプスブルク帝国に支配される。その後ハプスブルク帝国が崩壊しチェコスロヴァキア共和国が成立するも列強国による介入や支配で翻弄され1968年のプラハの春の改革をも押しつぶされる。このように西スラヴ民族は永いあいだ辛苦の歴史的運命を辿ることになる。

パリで成功を得たミュシャは祖国に戻り、幅4〜8mを超える画布に祖国の歴史的運命を《スラヴ叙事詩》として描き上げる。

テレビの特集番組で観た《スラヴ叙事詩》を記憶に残しながら展覧会場に入った。最初の《スラヴ叙事詩》を観た途端、その記憶は消え失せた。ミュシャは祖国の歴史的運命への憎しみを超えて、哀しい叙事詩として描いて今に生きる私たちに呼びかけているように受け止めた。そして《スラヴ叙事詩》から受け止めた美しさすら湛える哀しみは、私が抱いていた戦争認識を遥かに圧倒していたことだけは確かだと思いながら展覧会場を後にした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。