臨床宗教師

先日、BS放送で臨床宗教師をテーマにした番組を観た。臨床宗教師という言葉は私には初めてであったのでとても興味深かった。

臨床宗教師は宮城県で在宅ホスピスに取り組んで自らもがんの病で亡くなった故岡部健医師が英語の「chaplain(チャプレン)」の訳語として考案した名称が発端で、東日本大震災で家族を喪い未だに心の傷が癒えない被災者や終末期のがん患者の心に寄り添ってケアをする宗教者のことである。

一般に終末期の患者をケアする立場の人は本人の家族やホスピスなどの医療従事者であるが、故岡部健医師は患者が死と向き合う時、家族にも医療従事者にも心を閉ざして心の救いについて深く自己の中に求めて煩悶している患者が少なくないことを肌で感じて臨床宗教師の必要性を訴えていた。

そこで東北大学の鈴木岩弓氏が東北大学大学院 文化研究科に臨床宗教師の養成講座を設け、2016年2月に龍谷大学大学院 実践真宗学研究科など8大学と協力して正式な資格認定機関として日本臨床宗教師会を発足した。

宗教者といってもキリスト教、神道、仏教、イスラム教、ヒンドゥ教など様々であり、臨床宗教師は決して布教活動をしてはならない、特にカルト的な団体が入り込みやすいだけに充分に注意する必要がある。また臨床宗教師への報酬についてどうするかも課題である。厚生労働省も臨床宗教師について検討に入るかもしないというが政治と宗教という憲法上の問題もある。たしかにまだまだ検討しなければならないことがたくさんあろうかと思うが、臨床宗教師へのニーズは増えるように思う。

BS放送の番組に出演していた若い臨床宗教師の金田諦晃(たいこう)氏が子ども達を集めてご自分のお寺で行っている寺子屋のことを話されていたことがとても印象に残った。

実際に金田諦晃氏が患者の末期から臨終まで立ち会った体験を寺子屋で子ども達に話を聞かせ感想文を書いてもらった、その中の小学6年生が詩にして書いた感想文を番組で披露してくれた。

寺子屋で学んだ「生と死」

寺子屋で学んだこと それは生きるということ みんなと話ができる みんなと遊ぶことができる 息をしていられる それが今を生きている証明

寺子屋で学んだこと それは死ぬということ 人は死ぬと生き返らない でも生きている間に その人がしてきたことで みんなの心にその人の事が残るか残らないかが決まる

寺子屋で学んだこと 死ぬと全てが無になる訳ではないこと 生きている間 私たちがしたことが 死んだ後まで残るのならば 私は今を くいのないよう生きていく 精いっぱい 力強く

「生と死」について、小学生のこの詩がすべてを語ってくれているように思った。

 

 

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