731部隊のことなど

先日、「731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験」というドキュメンタリー番組再放送(NHKスペシャル初回放映日は2017.8.13)を観た。

731部隊というのは日中戦争の前年1936年に組織された大日本帝国陸軍の研究機関で正式名は関東軍防疫給水本部といい、その施設は旧満州のハルピンの平房にあった。部隊の総人数は最大3千人、部隊長は石井四郎軍医で感染症予防や衛生的な給水の体制の研究のほか、その当時、軍事的脅威であったソ連に対抗するために細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発をしていた。1925年のジュネーヴ議定書では化学兵器や生物兵器の使用が禁止されていたが日本は批准していなく、石井四郎軍医は防衛目的なら研究はできると解釈して日本の優秀なエリート医学者を集めて人体実験や生物兵器の実践的な使用をしたのであった。

さて満州事変以後、日本の傀儡国であった満州には日本に反発する匪賊(ひぞく)と呼ばれる中国人やソ連人のスパイや思想犯がいて、多くの人たちが日本軍に捉えられていた。そして逆スパイなどの利用価値がないと軍が判断した人たちは731部隊に送られて人体実験台にされていた。

そして太平洋戦争終戦から4年後の1949年に旧ソ連で開かれた731部隊の幹部を裁くハバロフスク裁判の22時間に及ぶ音声記録がロシア国立音声アーカイブで見つかり、敗戦から731部隊が証拠を徹底的に隠蔽してきた事実が70年を経たいま明らかにされたのである。

その音声記録は裁判官の質問に731部隊の軍医や衛生兵が証言をするという731部隊の実態がわかる内容だった。スイカマウリ(瓜)にチフス菌を混入して強制的に食べさせて感染させたり、実験部屋に4,5人を入れてペストに感染させた蚤を散布してペスト感染をさせたり、極寒期に囚人を零下20度の外に出し手を凍傷させその指を棒でたたき黒くなって落ちたり骨が露出したりした状態を観察したりして生きたまま人体実験をし、そして亡くなった人は3千人にものぼるといわれている。

そもそも日本の多くのエリート医学者がなぜ731部隊に関わったのか。特に多かったのは京都大学で、京都大学文書館に731部隊と大学との間に金銭のやりとりがあった文書が見つかっている。大学は多額の研究費を得ていたのである。さらに当時の日本の政府やメディアは匪賊に対して敵意を持っていて、日本軍による匪賊への処罰を支持していたことも大きい。

日本が戦争へと突き進む中、軍と一緒に大学という学術界が一線を越えた非人道的な研究をしていたのである。

このドキュメンタリー番組を観て、随分前に読んだ遠藤周作・著「海と毒薬」を思い出した。この本は遠藤周作の創作小説であるが終戦直前の1945年5月17日から6月2日におこなわれていた九州大学医学部生体解剖事件を題材にしている。

1945年5月5日、熊本県と大分県の県境山中でアメリカ陸軍航空軍の戦闘機B29が日本海軍航空隊の戦闘機紫電改の体当たりで撃墜された。機長以下搭乗員12名が阿蘇山中に落下傘降下、3名死亡、機長は東京移送、残り8名が捕虜となった。九州大学医学部出身の病院詰め見習士官の軍医と主任外科部長が8名の捕虜の身体を生体解剖の人体実験することを軍に提案し、8名の捕虜を九州大学医学部へ引き渡されることになった。

1945年5月17日から四日間の生体実験は、エーテル麻酔で眠る捕虜の右肺を摘出して片肺だけで生きられることを確かめる実験、手術で出血した分の代用として海水を使った輸液を血管に注入する実験、そのほか心臓や脳などの人体実験などが行われ、8人全てが亡くなった。

1948年3月11日、人体実験に関わった九州大学の医師・看護婦14名、軍人16名が軍事法廷に立たされ、絞首刑3名、終身刑2名、他は3〜25年の重労働の刑となった。

事件に関わった九州大学の医師たちは戦後は精神的苦痛の中にいたが、自ら積極的にこの事件について語ることはなかったという。

海と毒薬
海と毒薬

遠藤周作が書いた「海と毒薬」という小説の主題は、人間が犯した罪とその罪に対する罰のあり方を問うことだった。この主題は小説「沈黙」でも問われていた。731部隊や九州大医学部の人体実験は戦争という悪に起因するものだと纏めるだけでいいのだろうか。戦争であってもなくても人間が生来もっている罪性というものが人間の心の深部に潜在しているのではないか。人間の心の深部に潜在する罪性から克服する行為としてなんらかの信仰の心を働かせることもあるだろう。しかし特定の宗教の信仰を持たない私は心の深部に潜む罪性をどう克服することができるのか、いや死ぬまで自らに問い続けるしかないのだ。

 

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