5年前、このブログで「東日本大震災から6年」と題して投稿した。そして東日本大震災から11年が経った今も震災後の復興は未だに終わらない。正直に云えば私のなかで11年も経つと震災の記憶が薄れていることを自覚する。だが、私たちがいつ同じ規模の、いやそれ以上の災害を被ってもおかしくない現実があることを覚悟しなければならない。
私は震災の記憶が薄れていることを自覚する毎にNHKのホームページ「こころフォト」に立ち寄り、震災によって家族を喪ったエピソードに触れることにしている。このサイトは9年前に始まって今も続いていて家族の喪失の物語ということを越えて、家族とは何か、生きるとは何かという大きなテーマについて考えさせられ、私にとって大切な拠り所のひとつになっている。
さて話は変わるが、ロシアのウクライナ侵攻によって家族を喪う現実を毎日のように報道されるのを目の当たりにすると、心の底から湧き上がる怒りを何処にぶつけたらいいのだろうともどかしい気持ちになる。私はけして政治的な指向をもつ人間ではないが、ひとりの人間としてせめてこのブログで市井の人々の家族を喪わせる酷い振る舞いに対して深い憤りを拙い言葉で訴えたい。
一方、災害や戦争が外部から家族を喪失させることだとしたら、親が幼い子を虐待し死に追いやることは家族の内部から自らの家族を喪失させることだろう。親の子への虐待死の報道も深く心が痛む。もしかしたら一見幸せと思える家族の中にも虐待の芽が潜んでいるのかもしれない。
とりとめのない話しになったが、震災の惨禍も戦争の残虐も虐待の悲壮もいつどこで起きてもおかしくないのかもしれないとつくづくそう思う。だからせめて折に触れて「こころフォト」に立ち寄って生きることの意味を私自身に問い続けることが大切なのだろうと東日本大震災から11年経った今あらためてそう思うのである。