「かくれ佛教」

「かくれ佛教」
「かくれ佛教」

鶴見俊輔・著「かくれ佛教」を読んだ。

私はいわゆる戦後の進歩的文化人といわれる人たちに対しさして関心もなくなんとなく遠目で見ていた。丸山眞男の「日本の思想」、「忠誠と反逆」や加藤周一の「羊の歌」、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」などを読んでも共感する部分はそう多くもなかった。鶴見俊輔(1922.6.25~2015.7.20)に至っては全く読んだこともなかったが、5年ほど前に新宿京王百貨店の古本市でこの本の背表紙に書かれていたタイトルと著者名を見ておやっと思いこの本を手に取り購入した。しばらく本棚に眠っていたこの本を読んで鶴見俊輔に対するイメージが変わった。

鶴見俊輔は母方の祖父に後藤新平を持つ。4人姉弟で長子である姉は社会学者の鶴見和子で俊輔はその弟である。家族のうち父母妹弟はキリスト教信者であるが、姉和子は宗教に向かわず南方熊楠に傾倒した。俊輔は幼少のころから母親から何につけてもおまえは悪い子だと蹴られ撲たれて育ち、「自分は悪い人間である」と幼少期に自らに擦り込む。小学校の頃から不良児となって悪行を繰り返し、12歳には鬱病となり自殺未遂を繰り返し、心の病で3度入院をする。府立高校に入学するが2年で退学、府立5中に編入するも中退、家出もしている。そして親から米国留学を勧められ、父親のつてでマサチューセッツ州のミドルセックス校に入学、大学共通入学試験に合格してハーヴァード大学に進学する。

米国では圧倒的なキリスト教的思想で世界が動いているが俊輔は一神教のキリスト教に違和を感じる。そこでハーヴァード大学に所属する神学校でキリスト教に触れる。この神学校はユニテリアンで神の存在を単なるアイコンであって必ずしも神の存在を信じなくてもいいというカリキュラムだった。そのような緩やかなキリスト教観を感じながら戦中に帰国し、戦後は大学研究者、哲学者、評論家、政治活動家として日本で過ごし、米国に渡ることはなかった。

俊輔の内面には幼少から命を終えるまで「自分は悪い人間である」という認識に囚われていた。その認識が法然、親鸞、一遍、良寛などの浄土思想に向かわせる大きな動機づけと成っていく。戦後の日本は米国を中心とした西欧の近代思想に依拠している。言い換えればキリスト教的教義ともいえる神に信を捧げる善行の人のみ救われるという近代思想に対する懐疑を俊輔は感じていた。悪い人間である自分に救いを見いだせない俊輔は仏教の根本思想のひとつである浄土思想に自然と傾倒していく。

俊輔はこの本の最後に、「私の立場は《かくれキリシタン》にちなんでいうなら《かくれ佛教徒》といってもいい」と書いている。なぜ「かくれ」なければならないのかそこには言及していないが、俊輔自身が社会的に戦後進歩的文化人と見なされていることと関係しているのかもしれない。つまり仏教思想が進歩的思想と相反しているという社会的通念を俊輔は敏感に感じつつも、その社会的通念に反逆したいというパラドクスが俊輔の内面にあったのではないかと思う。この本を読んで私は俊輔の抱えていたパラドクスに人間としての魅力を感じた。

この本の表紙の絵は秋野不矩・画「朝の祈り」である。俊輔はインドに繰り返し行って描いていた秋野不矩に敬意を抱き、彼女の絵を観ると神々しさを感じると書いている。

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