日本の政治、文化、宗教、学問などあらゆる場において、歴史的古層から堆積してきた女性軽視・蔑視の風土はいまもある。今流行りの女性が輝く社会云々といった政治的キャンペーンは逆説的にそのことを示しているといえる。
そういう女性軽視・蔑視風土に対して戦前、戦中、戦後そして現在をとおして様々な立場で異議申し立てをしてきた女性たちの言説や行動があった。1880年代の岸田俊子、景山英子、1900年代の平塚雷鳥などの女性運動家から始まり、社会学的見地からフェミニズム論を鮮やかに展開していった江原由美子、上野千鶴子などの論者がいて彼女たちをフェミニズムのアイコンとして若きフェミニズム論者が支持するという現在に至る。
しかし、正直に言えば私は未だにフェミニズムに対してはっきりとした考えを持てないままでいる。そもそも真剣にフェミニズムについて学ぶことをしてきたかといえば殆ど自信がない。いままで上野千鶴子が著したいくつかの本を読んだだけである。「ナショナリズムとジェンダー」「ニッポンのミソジニー」「男おひとりさま道」などフェミニズムを論考したものや老後の生き方を論じたものを興味深く読んだに過ぎないが、「ニッポンのミソジニー」は日本における殆どの文学が女性軽視・蔑視風土に根ざしているという指摘に成る程と頷く程度。だからといって本当にフェミニズムを理解しているわけではなく歯痒い思いでいたが上野千鶴子のエッセイ集「ひとりの午後に」を読んでその歯痒さがすこし緩和されたように感じた。
「ひとりの午後に」は月刊誌「おしゃれ工房」(2008年9月号〜2009年12月号)に寄稿したものを編集した単行本である。そのあとがきの中で「『考えたことは売りますが、感じたことは売りません』と言ってきたが禁を犯して感じたことを語りすぎたかもしれない」と書いているほどフェミニズム論者とは全く違った彼女の世界を魅せてくれている。
実は上野千鶴子という人を好ましいとも嫌悪するともなくただ社会学者として秀でた人ぐらいにしか思っていなかった。しかしこの「ひとりの午後に」を読んで彼女に抱いていたイメージがすっかり変わってしまった。
日々の暮らしからみた物事をなんの衒いもなく素直な文体で綴られていて、いままで生きて培ってきた人間の滋味を感じさせるエッセイになっている。そして私とほぼ同世代の彼女だからこその共有感を持てたし、先鋭的なフェミニズム論者としての彼女を反転させたエッセイストとしての彼女の才能も感受できた。ともあれ上野千鶴子の振り子の振れ幅の大きさを改めて感じる。