「老人と海」

老人と海
老人と海

青年期から現在までのその時々に読んできた小説が「老人と海」だった。何度かこの本を紛失してもまた購入して読んだものだ。読むごとにこの小説から感受したものがその時々に変節してきたことを自覚する。考えてみれば「老人と海」は私のその時々の心情を反映するバロメーターだった。青年期の心情はどうだったか記憶が薄れているものの主人公サンチャゴの男の生き方への憧憬だったことをはっきりと覚えている。そして憧憬から共感、共感から同化へと変節してきた。

老成したサンチャゴがたったひとり小さな漁船で大海に出て体長5mを超える巨大マカジキと格闘しついに捕獲するも帰航中に捕獲したマカジキの肉を鮫に食いちぎられ、船に繋がれたマカジキが頭と骨だけの姿になって港に辿り着き、徒労感に打ちひしがれたサンチャゴは虚脱した心を内に沈ませた身体を小屋のベッドに横たえて眠りにつく、、、という単純なストーリーである。単純なストーリーだが大海で巨大マカジキと格闘するその躍動感にぐいぐいと引き込まれ私が一緒に格闘している錯覚と陶酔に浸ることができた。そして最後に漂う老成した男の悲壮感と悲壮感を突き抜けた清明感は何度読んでもたまらない美学を感じる。

しかし、いままではサンチャゴとマカジキとの闘いの交流の中に男の美学を感じていただけだったが、最近読み返してみて年老いたサンチャゴとマノーリン少年の交流に私の心情が動いた。マノーリン少年はサンチャゴに尊敬と親近の想いを抱いていて、端から年老いたサンチャゴには無理と噂されていてもサンチャゴの漁師としての魂の火は消えていないと信じている。一方サンチャゴ自身は自分の生き方を男の美学だなどとはちっとも思っていない、漁師として生きてきて年老いても今日も当たり前に漁をする、ただそれだけのこと。サンチャゴの生き方からマノーリン少年は何かを受け継ぐはずである。

老いるということは悲壮ではない、未来に何かを受け渡すことである。この歳になって改めて「老人と海」を読み返してみてそう思った。

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