「高瀬舟」

28年前に京都へ行った理由のひとつは、森鷗外(1862.1.19~1922.7.9)の小説「高瀬舟」を読んでぜひとも高瀬川を歩いて追体験をしたいと思ったことだった。私が40歳を過ぎた頃だからあの頃の高瀬川沿いの街並みは変化していることだろう。小説「高瀬舟」の時代背景の商家が建ち並ぶ街の様子はどんなだったろう。しかし時代とともに街並みが変遷したとしても高瀬川はあの時代から今も変わることがなく静かに流れている。

「山椒大夫・高瀬舟・他四編」
「山椒大夫・高瀬舟・他四編」

はじめて小説「高瀬舟」を読んだとき、どうにもやるせない気持ちを引きづったことを思い出すが、あらためてこの小説を読んでみるとやはり同じ心境になる。

小説「高瀬舟」の最後に鷗外自身が「附高瀬舟縁起」のなかで、神沢杜口(かんざわとこう・宝永7~寛永7.2.11)の随筆「翁草」の中の「流人の話」に書かれている財産(富)のこととユウタナジィ(安楽死)のことに触発されて小説「高瀬舟」を書いたとあった。

去年3月の投稿で尊厳死について書いたことがあるが、今も死をどのように迎えるべきか苦悩する人々が多く、尊厳死・安楽死の問題は今日的なテーマである。その安楽死をテーマとして森鷗外は大正5年の54歳のときに小説「高瀬舟」を書いている。

この小説の中から感受しうる貧困・自死・安楽死・罪と罰という身体と精神の極限にある人間をどのように捉えるか。弟を安楽死させて流人となる喜助、その喜助に絶命させてくれと懇願する弟、そして流人の喜助を高瀬舟に乗せて護送をする同心の羽田庄兵衛、それぞれの立場にたって読むとこの小説の味わいが違うように思う。

28年前、訥々と仔細を語る喜助とじっと訊く庄兵衛を乗せた曳舟はきっとこの川を私が歩く速さとほとんど同じ速さだっただろうと想いつつ高瀬川をゆっくり歩いた。・・・・いつかまた弟、喜助、庄兵衛のそれぞれの気持ちに添いながら高瀬川を歩きたい。

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