今月28日にNHK・Eテレ放映の日曜美術館「ジュルジュ・ルオー“聖顔”に込めた魂の救済」を観て、数十年前に出光美術館でルオーの“聖顔”を前に暫く動くことができなかったことを思い出した。その後もルオーの数点の作品が常設されている出光美術館に数回行って“道化師”、“聖顔”、“銅版画「ミセレーレ」”などの作品を何度も観た。
その当時、私は遠藤周作の“白い人・黄色い人”、“海と毒薬”、“わたしが・棄てた・女”、“沈黙”、“死海のほとり”、“イエスの生涯”やいくつかの随筆を読んでいた。私はキリスト教の信仰者ではないし、色んな本を読んでもキリスト教のことがよく理解できていない。でも信仰者からすれば間違っていると指摘されるかもしれないが、遠藤周作の作品を通してキリスト教のことが何となくふわっと解るような感じがした。それは遠藤周作のもつイエス観に母性的で慈悲的で日本人の感性に触れるイメージが投影されていたからだと思う。
例えばキリスト教の教義のひとつである“受難”において、イエスがどのような心で人間の原罪に対する贖罪のために十字架を背負ってゴルゴダの丘の磔刑場に向かったか、はたしてイエスの心は神への疑いなき全き信頼に満ちていたのだろうか。不安と恐怖、もしかしたら神への微かな疑いをも持っていたのではないか、孤独な弱きイエスとして磔刑場へ向かったのではないだろうか。
ルオーの“聖顔”を観ると遠藤周作のイエス観が二重写しになる。“道化師”も“聖顔”と遠藤周作のイエス観と同化する。日曜美術館「ジュルジュ・ルオー“聖顔”に込めた魂の救済」の中で1983年4月放送の日曜美術館で「私とルオー」と題して遠藤自身が出演していて、“道化師”は弱きイエスそのものだということを云っていた。確かにルオーの描くあらゆるイエスは弱き神の子だと感じる。つまり、弱き人間の傍にともに歩む弱きイエスがいつもいるように、鑑賞者が作品“聖顔”の前に立ってみると、あなただけじゃない、私も弱いんだよと語りかけてくるのである。
数十年前、“聖顔”の前で暫く動くことができなかった理由が今頃になって漸く解ってきたように思う。