はじめて旧約聖書のヨブ記を読んだのはいつ頃だったか既に忘れたが、何度読んでも腑に落ちることはなかった。信仰者であればヨブ記における神の意志、計らいを理解されているだろうと思う一方、神の意志、計らいをきちんと説明できる信仰者はそう多くはないのではないだろうか、そう思われるほどヨブ記は私にとって難解な聖書物語であり続けている。
ところで、ヨブ記に触発されてゲーテは「ファウスト」を書き、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を書き、キルケゴールは「反復」を書いたという。事ほど左様にヨブ記は文学者や哲学者にとって重要なテーマを内包しているのだろう。
ヨブ記には神、サタン、無辜の正しい人ヨブ、3人のヨブの友人、そしてもうひとりの友人エリフが登場する。冒頭、神とサタンがヨブの敬虔さについて対話するところから始まる。ヨブは家族や財産の恩恵を受けているから神に敬虔なのだとサタンは神を唆す。ならばヨブの一切のものを好きにしてみよと神はサタンに告げる。そしてサタンによりヨブは家族も財産も失い、全身の皮膚病に罹る。変わり果てたヨブに3人の友人が現れ神とヨブの関係について恣意的な意見を言うが、ヨブは今まで悪いことをしたことがないのに神はなぜ私を苦しめるのかと嘆き、次第に神の理不尽さを難じるようになる。そこにもうひとりの友人エリフがきてヨブと神について話し合い、やはりヨブに非があったのではないかと諭すもヨブの神への疑義は失せない。やがて神が立ち現れヨブとの対話になる。しかし神はヨブの疑義にたいして応えず世界の創造主は誰かということをヨブに問いかける。神の言葉によりヨブは自分こそが正しい人間だと思い上がっていたと気付かされる。神はヨブの悔い改めを受け入れ以前にも増して祝福された。(※聖書の専門家でもない私が書く大雑把な粗筋なので、間違っているところがありましたらご容赦ください。)
さて、戦争、飢餓、人種差別、弱き人々への虐待、障がいをもつ人々への偏見など私たちが生きるこの世界から様々な不条理が消えることがない。私たちはヨブ記から何を汲み取ることができるだろうか。無辜の人々であっても自己中心の価値観をもつことも許されないのだろうか。遠藤周作は旧約聖書の神は父性的であり、新約聖書の神は母性的であるというようなことを書いていたが、神の父性的絶対という信仰上の認識がなければ解釈はあり得ないのだろうか。
こんなことを考えるとますますヨブ記の難解さを感じざるを得ない。