明日は北原怜子(きたはらさとこ:1929.8.22~1958.1.23)が亡くなって60年目の命日である。
私がいくつの頃だったか忘れたが、北原怜子をモデルにした映画「蟻の街のマリア」を観た記憶がある。主演の千之赫子の健気な生き生きとした姿が美しい映像として今でも微かに脳裏に残っている。
怜子が20歳のとき、妹・肇子が通学していたミッションスクールのメルセス会との出会いからカトリックの洗礼を受けている。肺結核に冒されていた怜子のために一家は怜子の姉・和子の嫁ぎ先の浅草に移転する。そして21歳のとき、コンベンツァル聖フランシスコ修道会のゼノ修道士と初めて会う。
ゼノ修道士は1930年にコルベ神父たちと布教活動のために長崎に来る。コルベ神父が帰国後もゼノ修道士は長崎に残り長崎原爆投下によって被爆する。そして太平洋戦争終戦後は、墨田区言問橋たもとの蟻の街と呼ばれていたバタヤ街で戦災孤児や恵まれない人々の救済活動をしていた。
怜子が初めてゼノ修道士と初めて会った日にゼノ修道士が言った「恵まれない人々のために祈ってください」という言葉が心の深くに残った。そしてなんとか言問橋たもとの蟻の街に行ってみたいという思いが募り、自分の病弱も顧みず怜子は蟻の街へ向かったその日から蟻の街との関わりが始まった。
そもそも蟻の街というのは廃品の回収と仕切りを主な収入源として生活をしていた労働者の生活共同体の場所で、蟻の街を束ねていた小澤という人物が同胞援護会(今の社会福祉法人にあたる)から借り受けていた場所だった。しかし、蟻の街は協同体内の報酬のトラブルや地元暴力組織とのトラブルもあったりで、東京都は立ち退きの計画を模索していた。そこでなんとか東京都に立ち退き回避を納得させるべく、小澤は同胞援護会関連の法律事務所にいた松居という人物と蟻の街を自立した健全な生活共同体を創ろうとしていた。
みすぼらしい衣服、粗末な食事、不衛生な住まい、等々、裕福な家庭で育った怜子にとって、初めて訪れた蟻の街をみてショックを受ける。そして蟻の街に住む人たちのために何か献身したいと強く思い、蟻の街に通い子どもたちの身の回りの世話や勉強を教えたりするようになる。最初、大人たちには怜子の姿は恵まれた家庭の娘が貧しい者に上からの目線で施しをしていると映っていた。しかし、日が経つにつれ怜子が一緒に廃品回収の仕事を一緒にするなど献身的な姿にうたれ、彼女を信頼できる人間として受け入れるようになった。怜子自身、自分も蟻の街の人々と喜びも悲しみも共に分かち合うために蟻の街に住み暮らすようになるが、ついに病気のため28歳の若さで蟻の街で一生を終えた。そのあまりにも短い一生は蟻の街の人々と喜びも悲しみも共に分かち合うことができた幸福に満ちた一生だった。
北原怜子の献身で一番大きなことは、子どもたちと一緒に廃品回収をして得たお金をもっと貧しい人々に寄付をして社会貢献をしたりして、蟻の街に住む人たちに自立と希望をもたらしたことだと思う。なお、蟻の街の人々と北原怜子やゼノ修道士との交流が当時の新聞にも大きく報じられ、東京都知事が感激して立ち退き計画は中止になったという。
人々は北原怜子のことを蟻の街のマリアと呼ぶようになった。そして北原怜子が亡くなった1958年に映画「蟻の街のマリア」が制作された。
人によってはこの映画は単なる宗教的美談として捉えるかもしれない。さて私がいま改めてこの映画を観たらどのような感想をもつだろうか。
※台東区・隅田公園 リバーサイドギャラリーで今月20〜23日迄「ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真展」が開催されている。