尊厳死を考える

文芸春秋2016年12月号で91歳の著名な脚本家が安楽死で逝きたいという主旨のエッセイを寄稿している。そのエッセイを受けて同誌2017年3月号で安楽死の是非を問うアンケートを同誌寄稿者を主に146名に宛てて60名の回答を得ている。その結果、「安楽死に賛成」が33名、「尊厳死に限り賛成」が20名、「安楽死、尊厳死に反対」が4名、無回答3名であった。

「安楽死に賛成」の理由として多かったのは「自分の死は選ぶ権利がある」とあった。「尊厳死に限り賛成」の理由では「恣意的に命を奪う手法としての安楽死には抵抗感がある」「安楽死と尊厳死、自殺と自殺幇助の境界線がきちんと認識されているか不安」「本人が積極的死と認識していたとしても遺族の記憶に自死のイメージが残存するのではないか」というものであった。そして「安楽死、尊厳死に反対」の理由は「そもそも生死を自らの意思で決定することは聖域を超えた冒涜的行為」などであった。

日本では安楽死は犯罪行為ではあるが、尊厳死についても終末期治療の現場では本人、家族、そして医療従事者にとって難しく重要な問題として社会的関心事でもある一方、広く議論されないでいた。そのような中、発行部数の多い月刊誌がこのようなテーマを掲げるのはとても良いことだと思う。

私の母は4年間の経管栄養の延命治療を受け続けて昨秋一生を終えた。私が母の傍にいた終末期の2年間、尊厳ある命について考えさせられた。母自身が延命治療の意思決定が困難な身体的状態にあり、私たち家族も延命治療について知識もなく経管栄養措置を選択したことを私たち家族はずっと迷い悩む日々を過ごしていた。しかし、母の終末期の4年間はたしかに家族の呼びかけに反応は鈍かったものの、身罷りの直前にはしっかりとした眼差しでじっとこちらを見て最後の息を大きく吸って一生を終えた。そのとき経管栄養で過ごした母の4年間は決して尊厳なき命ではなかったと確信した。

母の傍らにいた最初の年、月刊誌「現代思想・尊厳死は誰のものか」と知人から紹介された本「逝かない身体」の二冊は尊厳ある命とはなにかを考える上でとても参考になったと同時に、迷い悩む日々に一条の光を見ることができた。

逝かない身体・尊厳死は誰のものか
逝かない身体 & 現代思想・尊厳死は誰のものか

母が経管栄養を始めたその年に「尊厳死法制化を考える議員連盟」がいわゆる尊厳死法案「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」を国会に提出している。このことを知ったのもこの本であった。

この尊厳死法案を読むと、医療従事者が終末期医療において延命治療の中止に関し免責されることを保障するためと社会保障の医療費削減のためだけの法案のようにも感じた。たしかに医療従事者が末期医療において尊厳死として医療措置をすべきかどうか悩む現実は理解できるものの、合理的で効率的な終末期医療を確立するために尊厳死法として法制化していいのだろうか。各方面からも法制化に反対の声も多い。

2007年に厚生労働省の「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」は過去に医師の独断で延命治療を中止した積極的安楽死事件があって定められたが、このガイドラインはあくまでも指針であって、患者、家族、医療従事者が信頼関係に基づいて終末期治療のあり方を充分に話し合うことこそが大切であろう。

いまでこそ健康面でさほど不都合なく生きている私は、終末期医療を受けるにあたって延命治療はしないという選択をするつもりでいる。しかしそのとき生への執着を放棄して静かに死を迎える強い精神力が本当に保たれるのだろうか自信がない。人間はリビングウィル(生前意思)によって延命治療の継続を拒否し植物人間となったとしてもそのリビングウィルが有効に働いていると本当に言い切れるのであろうか。もしかしたら身体的に反応できないだけで、微かな意識のなかで生への希望を持ちながらその希望を伝えられないでいるのかもしれない。延命治療を中止する命と延命治療を継続する命とどちらが尊厳があるかと言えるのであろうか、同じ人間の命に尊厳の有無を判定できるのであろうか。

尊厳死については人それぞれ死生観が違うし様々な意見があってしかるべきだと思う。難しいことであるだけになかなか家族や友人などと話すことを避ける傾向にあるが、もっと広く議論がなされてもいいのではないかと思う。もしかしたらいずれ自分に関係することになるかもしれないのだ。

いつかどこかでこのことを留め置きたいと思いここに投稿してみた。

 

2件のコメント

  1. 久しぶりの剛君のブログ、暫く掲載が無いと体調が悪いのでないかと心配をしていた。今日のテーマは「安楽死と尊厳死」このテーマは自分なりに高校時代から死生観について漠然と考えていた。医療の発達した現在、又、益々長命化していく将来、必ず自分たちにも訪れるであろう問題として考えていかなければならないと思う。思慮能力を持った人間だけに課された結論の無い永遠のテーマとして。

    1. 尊厳死法案が法制化すれば、医療従事者だけでなく家族の方も迷い悩む苦慮から解放される場合もあるかもしれません。
      しかしそれでいいのだろうか、人の末期を法律という手立てで合理させることに危惧を覚えて書いてみました。
      もしかしたら私が末期の時に考えが変化するかもしれません、そのための備忘録でもあります。

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