函館に移住する前、東京で催されている建築展、映画、絵画展、音楽などになるべく触れておきたいと思い、いろんな処に行った。私が住んでいた場所から数駅離れた処にある世田谷文学館もそのひとつで「幸田 文 展」を観た。
慥か「流れる」を読んだのは私が40代で、「父・こんなこと」を読んだのは50代だったと思う。今思えば幸田 文の作品の感じ方というか味わい方はかなり浅かったと云わなければならない。というより、そもそも二作品を読んだ程度で幸田 文の愛読者というわけにはいかない。そして「幸田 文 展」を観て、幸田 文の作品に触れるということは代表作といわれる小説、随筆、アンソロジー等およその作品に触れるということしかないとあらためて思った。しかし些事に囚われて今だに上記の二作品以外の作品を読んでいない。
まずは「父・こんなこと」を読み返してみた。
幸田 文は1904年(明・37)9月1日に幸田露伴の次女として生まれ、1990年(平・2)10月31日に他界、享年86歳で明治、大正、昭和、平成を生きた人だった。文が6歳の時に実母が早世し、8歳から継母に育てられる。そして24歳で嫁いだが、34歳のとき離婚をして娘・玉を連れて実家に戻った。病弱な継母は家事に殆ど関われず文41歳のときに亡くなっている。だから父・露伴は娘・文に対し厳父としてあらゆることを教え込む。文は父の厳しい躾けに応えようと堪える。露伴が病に臥してからは躾けを超えて病める老人の我が強まる。父の死と弔いの顛末が「父・こんなこと」に濃密な文体で綴られている。
文は43歳のときに父・露伴が亡くなってから公に文章を書くようになる。それまで父の存在の下で暮らしの支えを担っていた。それも良くも悪くも露伴の思考に基したやり方を身に付けるよう堪え通した。それが文の作品に色濃く投影されていて教養に裏打ちされた品性を醸し出しているように思う。文は厳父の死を経て小説家として、随筆家として開花する。崇敬しつつも父から感じ続けた被洗脳的で被抑圧的な心的コンプレックスを克服し、逆にそのコンプレックスを糧にした見事な開花だと思う。また、明治、大正、昭和、平成に生きてあらゆることをみつめてきた眼差しが深みのある開花となっていると思う。
「父・こんなこと」をあらためて読むと、厳父への尊敬と愛情そして憎悪と反発が複雑に彩なす心情を、瑞々しい筆致で綴られる文章を味わうことができた。文中に父の臨終の数日前に交わした会話で・・・「じゃ、おれは死んじゃうよ」と云った・・・という文章がある。文は子どものころから姉弟のなかで自分だけが父から愛されていないと思っていた。しかしこの父の最期の言葉は、今までお前に対して厳しくしてきたのはお前が一番気懸かりだったからだ、しっかりと生きてほしい、という父の想いだったのだと文が受け止めたのではないだろうか。この部分の文章を読んで救われたように感じた。
昨今の世情は私の感受能力を超えた気の遠くなるほど夥しい情報に溢れている。そしてその世情から逃れることすら難しくなっていて、どこかにカタルシスを求めたくもなる。そんな中、幸田 文の一端に触れてみたくなった次第である。