東日本大震災から6年

2011年3月11日午後2時46分、私は調布の複合商業施設PARCO地下食料品売り場で買い物をしていた。突然、いままで経験したことのない揺れが身体の安定を奪った。周囲の客や店員は尋常ではない動揺で騒然としていた。マグニチュード9規模の東北地方太平洋沖を震源とする大地震であった。同年4月、政府はこの地震の名称を東日本大震災とした。

甚大な津波被害は東北地方沿岸部の広範囲に亘った。福島県いわき市久之浜地区も多大な津波被害をうけた町のひとつであった。私は知人の呼びかけで2012年10月20日、21日にかけて「いわき市久之浜地区地区災害復興協議会」に知人とともにアドバイザーとして出席することになった。

この協議会は住民、いわき市久之浜・大久支所担当者、久之浜地区出身の市議などで久之浜地区の復興まちづくりについて話し合う会議で、検討事項のなかの重要なテーマのひとつに災害復興住宅のあり方があった。私の知人たちは以前から、住民にとってより安全で人と人とのコミュニティが生まれる住み良い災害復興住宅の計画を提案する立場で協議会に関わっていた。しかしその後住民から計画の内容よりとにかく早く災害復興住宅に移りたいということで、結局提案は活かされなかった。提案が受入れられなかったことに無力感を抱くとともに残念ではあったが、住民の方々の心情は当然のこととして充分理解できるものであった。

この協議会の関わりは一度だけではあったが、住民の真剣な復興への切なる思いを垣間みることができた価値ある経験として毎年3月11日になると思い出す。

2012.10.20 久之浜
2012.10.21 久之浜の津波被害跡
2012.10.20 久之浜・秋義神社
2012.10.21 津波に流されず残った久之浜・秋義神社

久之浜地区は津波被害によって70名弱の命が奪われ多くの家が土台もろとも破壊されたが、浜辺に面して建つ秋義神社(あきばじんじゃ)だけは奇跡的に残った。いま久之浜地区の被害エリア跡を緑地広場にする計画があってこの秋義神社を取壊す予定があると聞いている。もし取壊されたとしたら、すべて無くなった被害エリアに凛として建っていたあの姿を眼の当たりにしていただけに寂しい気がする。

ところで、原発被害によって各地に避難して住んでいらっしゃる方々が賠償金をめぐって子どもだけでなく大人も嫌がらせや精神的苦痛を受けているという報道があった。このようないわゆる原発いじめは決して赦されることではない、自分が被害を受けて困難な生活をしなければならない立場のことを想像すればわかるはずである。

一方、原発いじめや嫌がらせをする側の人たちのことも考えてみた。もしかしたらこの人たちの何人かは益々拡がる格差社会で貧困のただ中で生活していて、その反動から発する羨望と腹いせの行為なのかもしれない。だとしてもその行為の矛先は明らかに間違っている。

フクシマ論・原子力ムラはなぜ生まれたのか
フクシマ論・原子力ムラはなぜ生まれたのか

戦後の高度成長と共に中央が地方に原発をつくり経済発展を企図して国も、電力会社も、私たち一人一人も、繁栄幻想をもちつつ「原子力ムラ」を成り立たせてきた。開沼博氏の著書「フクシマ論・原子力ムラはなぜ生まれたのか」(青土社刊)はこのことを考えさせてくれる秀逸な著書だと私は思っている。原発被害も格差社会の貧困も「原子力ムラ」を成り立たせてきた経緯そのものが抱えている不条理にこそ因果があるのだ。

41年前、ネパールに寺院建築や民家の視察に行ったことがある。ガイドをお願いした女性に電気はどのような手段で地域に供給しているのかと尋ねたところ、「(ヒマラヤの)水から頂いています。」と応えてくれた。自然への感謝と畏敬の言葉として心に響いた。私たちの暮らしを当時のネパールの暮らしに戻せと言うつもりは毛頭ない、また戻ることもできないだろう。だが、これから私たちはどのような社会を次世代に繋いでいくべきかをいまこそ真剣に考えなければならない。

4件のコメント

  1. 今晩は。月日の経過は早いですね。震災から6年、毎年3月11日を迎えるとマスコミを先頭に震災についてのその後の状況、復興にむけての現況、避難した人達へのインタビューetcが新聞、テレビ、週刊誌などで「これでもか」との感じで情報が流れ、3月12日過ぎると、震災がなかったかように報道されないと感じてます。大きな事象、事故、事件etcについて風化させないように情報を提供し、現況を知らしめるのもマスコミの使命だと思うんだけど・・・
    勿論、自分も忘れてはならない事だし、自分に振りかかった時に何ができるか考えてなければいけないいだろうけど。日々何となく過ごしてる自分がいます。自分に振りかっかてない事については、俯瞰的にどこか覚めてみてるんでしょうかね?近くは、奥尻島地震、神戸阪神地震等自然に対治して考える機会があったのかな?生活、活動の原状回復、を優先し長いスパンで考えなかったのでは?とも思ってます。忘れるのも人、忘れないのも人、忘れてはならない事を折にふれて思いだしてみるのもいいと思ってます。漱石のブログも楽しく、新しい発見を得ました。ありがとう。夜分ごめんね。裕士でした。

    1. 殆どの被災地は未だ復興の道半ば、6年経ったいまも仮設住宅や避難先の仮住宅で心身ともに限界を超えて、絶望感すら感じておられる人たちが多いといいます。
      いつまたどこかで大災害が起こるかもしれません。自分のこととして考えなければと思っています。

  2. 2011年3月11日の東日本大震災はその時の当事者として何処にいてどうだったのかと鮮明に記憶している。特に私は以前に久慈から田老、大船渡、塩釜、陸前高田、松島。閖上、相馬、いわき、と通って見ているので猶更、思いが深い。又、震災後の復興への団結、原発に対する考え、被害者に対する心無い行動、このような時こそ人間としての普段の素養が出てくるのであろう。顧みて自分はどうであるのか、戒めとしてこの日を深く心に刻んでいる。

    1. 津波被害が甚大な所をずっと見てきたんですね。被害跡のシーンがまだ記憶にあるのでしょうね。
      大災害は決して過去の出来事としてあるのではなく、現在と将来の出来事として捉えなければならないですね。

      災害に対処するにあたって「自助」→「共助」→「公助」という考えがあります。
      まず今個人が出来ることとしたら非常食、緊急避難グッズ、家具転倒防止などの準備をして自力で災害発生から3、4日生き延びる「自助」をすること、「自助」ができれば「共助」に参加でき「公助」に繋がりさらに「復興」への道が見えることもあると思います。
      大文字の復興を考える前に個人ができることもあると思います。

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