無題

曇りがちの日が続く中、とりとめのないことが浅薄な頭に濃淡混じり合って巡ってくる。

さて、夫・妻、ご主人・奥さん、旦那・嫁、彼・彼女、などなど婚姻の相手同士をどのように表現するかについては多様化していて、表現において慎重になる場面も少なくない。とりあえずここでは婚姻同士の表現を夫と妻と書かせていただこうと思う。

最近、評論家の江藤淳さん(1932.12.25~1999.7.21享年66歳)の著書「妻と私」を読んだ。妻の慶子さんの発病、看病、死の別れ、そして荼毘に付す経緯が描かれていた。病床で苦しむ妻への献身、最愛の妻を喪った悲愴と心の空白、その後に江藤淳さん自身が病に冒されたことなどがそこに綴られていて、夫婦の情愛の深さが行間を通してひしひしと伝わってくる。そして妻の死後の一年足らず、江藤淳さんは自宅浴室で手首を切って自死した。遺書があった。

・・・心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とされよ。 平成十一年七月二十一日 江藤淳・・・

遺書には自らの病苦に因することを自死の故としているが、その故は最愛の伴侶の喪失であるに違いないことは私ごときでも分かる。

私ごときというのは、私自身、婚姻の立場でなくなって久しく、伴侶という存在のない独り暮らしも永くなり、夫婦の情愛という感情が過去のものとなっているからである。私がいう夫婦の情愛というのは夫婦の愛憎というニュアンスをも含んでいるのだが、既にそういう感情を持てる環境にはない。だからこそ「妻と私」を読んで夫婦の情愛というものに憧れすら感じると同時に、夫婦の情愛とはどういう感情だろうと考える。

この本を機に、城山三郎・著「そうか、もう君はいないのか」、倉嶋厚・著「やまない雨はない」を図書館で借りて通読した。どれも最愛の伴侶を喪った心の襞を綴っている本だった。どれも妻を喪った夫の心象だが、夫を喪った妻の心象は如何ならんやと想像する。勿論、夫婦それぞれの関係は一様ではないだろう、私も含め大抵の家族にもそれなりの悲痛な家族関係のなかで苦悩している場合もあろうと思う。

あれやこれやも含めて夫婦の情愛とは何だろうとは、詰まるところ生きるとは何だろうということだろうか。かくの如くこの歳になっても生きる意味云々に未だに惑う有様である。

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