白洲正子

白洲正子(1910.1.7~1998.12.26)が鬼籍に入ってもう19年経とうとしている。以前、白洲次郎・正子夫妻が住んでいた武相荘に行ったことを思い出す。

武相荘
武相荘    2006.10.18撮影

武蔵の地と相模の地のちょうど境にあるこの地にあることと、無愛想という言葉を掛けて武相荘と名付けた。白洲正子の嗜好性の一面である諧謔的な趣きが表れていて可笑しみが感じられる。この建物の敷地の植栽、建物の意匠、建物の中にある品々は、いわゆる白洲正子好みといわれる感性で充満した空間となっている。両親が所有していた富士山の裾野の自然に囲まれた茅葺き屋根の別荘・瑞雲荘で過ごした幼少期の記憶が武相荘に影響しているのではないかと思われる。

白洲正子は華族の家庭の末娘としてなに不自由なく育ち、持ち前の勝ち気な気性から湧き起こる旺盛な好奇心と探究心は88歳で亡くなるまで変わることはなかった。その好奇の対象は能、陶磁器、染め織物、絵画、仏像、旅など広範である。そして出会った人にもその好奇の対象に眼を据える。特に青山二郎、小林秀雄との出会いは白洲正子の人生に大きな影響をもたらしている。

私は正直に言えば、武相荘で横溢するように展示されていた白洲正子好みといわれる品々の良さがよくわからない。しかし白洲正子が書く流れるような筆致の随筆に引き込まれる。

かくれ里
かくれ里

とくに「かくれ里」はそこに行ったことのない私はまるで白洲正子好みの旅に同行しているかのような錯覚になる。

「かくれ里」は京都を拠点に24箇所の場所を取材して、1969年1月から2年間「芸術新潮」に連載したものを纏めた本である。白洲正子の身についた特に中世の歴史、宗教、古美術、謡曲、能芸などの素養に裏付けされた24箇所のかくれ里の随筆を読むと誰でも其処へ行ってみたい気持ちが起こるのは不思議ではない。おそらくこの本を読んで24箇所の場所へ行った人は少なくないのではないだろうか。もしかしたらもう其処はかくれ里どころか観光の名所になっているかもしれない。

そうではないとしても、その24箇所の場所へ実際に旅したところで、この本を読んで感じた芳醇な旅 への夢想を超えることはできないのではないか、そう思いつつ私は今も其処へ行ったことがない。

そしてこの本を読むと最近の旅ブームに何かが喪われているのではないかと文章の隙間から問われているように感じて、私は微かな後ろめたさすら覚える。

さて、白洲正子は三人の子の母でもあるが、「子供は、親に対して批判的な目を向けるか、あるいはまた親のようになりたいと思って育つか、そのどちらかではないかと思っていますが、私は明らかに前者に属します。何も母親らしいことをしてくれなかった母ですが、ただ、母の子で良かったということがあるとすれば、毎日の食事に深く関わる食器に目を向けるようになれたことです。・・・略・・・器と一緒にしては申し訳ありませんが、多くの良き知人も母が残してくれました。」と実娘・牧山桂子のエッセイで読んだことがある。

白洲正子は自分の眼前にある道を我儘だと言われようがただ真っ直ぐに歩ききった人だった。母の姿を子がどのように受け止めるかはそれぞれ違うのは当然であるが、白洲正子の娘の受け止めた母の姿も紛うことなく愛すべき母の姿だった。

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