長崎原爆の日

今年も長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が平和公園で開催された。

1945年8月9日朝11時2分、長崎市浦上地区の上空503メートルで原子爆弾が炸裂し、熱線、放射線が人々を襲った。爆心から1キロメートルにいた人は殆ど即死、その年だけで7万人を越える人が亡くなった。今年新たに3 ,102人の名前が原爆死没者名簿に記され、いままでの被爆者は189,163人となり、長崎原爆死没者平和祈念館の追悼空間にある原爆死亡者名簿棚に奉安されている。

今年の「平和への誓い」は被爆者代表92歳の岡信子さんだった。爆心地からおよそ1.8キロメートルの実家で被爆した岡信子さんはほとんど被爆体験を語ることがなかった。しかし、数年前から少しずつ語り始め今年初めて「平和への誓い」の候補者に応募して選ばれ被爆者代表として「平和への誓い」を語った。その岡信子さんの矍鑠とした姿と平和公園にしっかりと響き渡る声から、被爆の悲惨さ、平和への切なる願い、そして語り継ぐ意思が迫り伝わってきた。(この投稿の最後尾に岡信子さんの「平和への誓い」を載せました。)

しかし、被爆者の平均年齢は84歳となり、被爆者自ら語ることがない時代になるのも遠くない現実がある。岡信子さんの「平和への誓い」を聴くと、あらためて語り継ぎが本当に大切であることを再認識する

祈念式典が始まるに先立って核兵器廃絶を訴える署名活動をしている高校生平和大使約80名が、原爆落下中心碑を囲んで人間の鎖をつくって平和を祈る集まりがあったという。

また、祈念式典の会場で、平和への思いを願って「ナガサキ誓いの火」の塔に飾るために幼い子どもと若い母親が折り鶴を折っている姿をみると、語り継ぎの希望を感じた今日だった。

 

 


「平和への誓い」

 ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。89日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我を負いました。

 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似で救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。大怪我をした父を時津国民学校でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

 私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年8月9日

被爆者代表  岡 信子


 

※このブログで長崎原爆について下記に投稿しています。

2020年8月9日投稿 「祈りの長崎

2017年8月9日投稿 「語り継ぐ

 

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