高峰秀子のエッセイ

子どもの頃から女優・高峰秀子(1924.3.27~2010.12.28)が出演した映画をよく観ていたように思う。数多くの出演作品のうち成瀬巳喜男と木下恵介の作品が多く、とくに「カルメン故郷に帰る」、「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾歳月」、「衝動殺人 息子よ」など木下恵介監督のものが記憶に残る。

高峰秀子は函館で父・平山錦司と母・イソの長女として生まれる。4歳のとき母親が結核で亡くなり、父親の妹・しげの養女になり東京に移る。このしげという人、17歳のとき函館に来た活動弁士と駆け落ちをして女活動弁士になった人だという。養父の知人の案内で松竹蒲田撮影所に見学に行ったところ、丁度「母」という映画のオーディションがあり飛び入り参加の結果、監督に選び出され母親の娘役で出演することになった。それが1929年9月のこと当時5歳であった。それ以来女優ひとすじ、しかし学校で勉強をしたいという思いがだんだん募ってきてようやく13歳のときお茶の水の文化学院で学ぶ機会を得る。しかし女優としての状況から月2、3日しか登校ができず、入学1年半で退学せざるを得なくなる。その後、1979年の「衝動殺人 息子よ」に出演したのを期に女優業を辞めるまで女優として生きていく。

 

いっぴきの虫
いっぴきの虫

そして女優として活躍していた頃からエッセイストとしての才能を開花させる。1953年刊行の「巴里ひとりある記」を皮切りに数多くのエッセイを書き、1976年に「わたしの渡世日記」で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。私は高峰秀子のエッセイはいままで文庫本「いっぴきの虫」と「おいしい人間」の二冊でしかないがその平明で上質なユーモアと滋味のある文体に魅了される。多くの人たちとの交流、尽きせぬ好奇心、人生の粋など広範に渡る内容にぐいぐい引き込まれる。

 

おいしい人間
おいしい人間

その中で私が特に心に滲みたのが「おいしい人間」の中にあるエッセイ「小僧の神様」だった。

小学校にもろくに行っていないという欲求不満から、撮影の合間にさぁっと読める詩集、随筆集、短編小説などを手当たり次第に読んでいたという。そんな中、高峰秀子にとって少女の頃から一貫して心に残っている小説が志賀直哉の「小僧の神様」だったと書いている。

丁稚奉公の小僧が見知らぬ人から鮨を御馳走になるという単純な物語だが、「はじめて『小僧の神様』を読んだとき、私の眼から涙があふれ出して困ったことを覚えている。そして、当時少女俳優だった私は『もし、自分が少年俳優だったら、この仙吉という小僧の役を演ってみたい』と思った。きっとうまく演れる、という自信があったからである。」というほど高峰秀子は小説の主人公に感情移入していた。

そしてこの小説を読んだ30年後に高峰秀子は小僧に鮨をふるまった客「A」の立場になって小説を振り返る。「・・・Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。・・・略・・・小僧も満足し、自分も満足していい筈だ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、或喜びを感じていいわけだ。所が、どうだらう、此変に淋しい、いやな気持ちは。何故だらう。何から来るのだらう。丁度それは人知れず悪い事をした後の気持ちに似通って居る。・・・」という「小僧の神様」の一節に高峰秀子は心を寄せる。

そして「小僧の神様」の最後に志賀直哉は・・・「A」のでたらめな住所を小僧が訪問してみるとそこに人の住まいではなく稲荷の祠があったと書こうと思ったが小僧に対して残酷な気がしたからここで筆をおく・・・と締めくくる。その小説の最後の一節に高峰秀子は「志賀直哉という人の『小説』に対する恐れのようなものを感じることの出来る、貴重なしめくくりだと思う。」と書く。

この高峰秀子の感性から人間としての深みを感じることができたエッセイだった。

 

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