文芸評論家・亀井勝一郎(1907.2.6~1966.11.14)は函館市元町にあるカトリック元町教会の隣家で生まれ、弥生小学校と旧制函館中学校(現・道立函館中部高校)に学び高校からは山形へ移っている。東京帝大ではマルクス・レーニン主義に傾倒し共産主義青年同盟に入り、治安維持法違反の疑いで投獄された体験をし退学となる。その後、同人雑誌「現実」、「日本浪漫派」で評論を発表し本格的な執筆活動を始める。
主な著作に「人間教育」「大和古寺風物詩」「愛の無常について」など多数あり、文学論、宗教論、芸術論、人生論、文明論など多岐に亘る評論を発表しているものの生まれ育った函館について書いたものは極端に少ない。
しかし先日、図書館で函館について書かれている書物を見つけた。「亀井勝一郎著作集 第6巻」である。この著作集は作家論・恋愛論・随筆集という三つのカテゴリィで構成されていてその随筆集の中に「東海の小島の思い出」(昭和23年5月稿)と「函館八景」(昭和22年6月稿)という二つの随筆があった。少年のころの記憶を辿りながら函館への溢れるような望郷の想いで綴られている。
「函館八景」の中の“ホワイトハウスの緑蔭”を以下に引用したい。
これは私の中学生時代の思い出であるから、現在はどうなっているか知らない。私の中学校はその頃の郊外で、周囲に白楊を植えていたので、白楊ガ丘といった。隣りは時任という牧場で、この牧場をはさんで向方に、メソヂスト派のミッションスクールがあった。その校長のアメリカ人の住んでいる建物は、白いペンキで塗られた上品な洋館で、牧場と森の緑をとおしてその白色の館を望むのは、実に美しい異国的な眺めであった。中学生達は、愛称としてホワイトハウスと呼んでいたのである。ついでに言うと、ミッションスクールの女学生達に対する少年のあこがれの象徴でもあったのだ。私達は、何か神秘なものでも望見するように、おそるおそるホワイトハウスを眺めたものである。中学生達は、にやにや笑いながら、意味ありげにホワイトハウスと云った。つまりそれが恋愛のはじまりの合図だったのである。
この辺の風景は、私の少年時代はたしかによかった。時任牧場からミッションスクールを経て、競馬場があったが、その間およそ一里近い間は広々とした草原地帯で、そこには牛や羊が放牧されてある。海岸寄りには砂山があり、砂山を越えて海峡が見わたされた。この砂山の歌は、啄木の歌集にいくつか出てくるので有名である。私は幼少年時代、二三人の友と屡々この辺を歩きまわった。さきに述べた大森浜に沿うて、砂山に至り、砂山を越えて牧場に至り、緑蔭のホワイトハウスをみながら、更に大草原を横断して湯の川の温泉コース、これは一里半ほどの快適なハイキングコースである。現在は市に編入され、家もたてこんでいるので、昔日の面影は次第に薄れてしまったのではなかろうか。(本文は旧漢字と旧仮名遣い)
なんと少年時代の瑞々しい函館への思慕だろう。この文章を読むと当時の函館の景色をありありと想像することができる。亀井勝一郎が卒業した旧制函館中学校は私の母校でもあるので尚更のことである。「函館八景」は“ホワイトハウスの緑蔭”の他に“寒川の渡”、“舊桟橋の落日”、“立待岬の満月”、“教会堂の白楊(ポプラ)並木”、“臥牛山頂”、“五稜郭の夏草”、“修道院の馬鈴薯の花”という亀井勝一郎の心象に佇む函館の八つの景色が生き生きと表現されていて一気に読み終え、暫し瞼をとじて当時の函館八景に心を遊ばせた。