啄木と賢治

盛岡の小さな町に生まれたこと、詩歌の人だったこと、早逝だったことなどが類似していたせいか、子どもの頃の私にとって石川啄木(1886.2.20~1912.4.13・享年26歳)と宮沢賢治(1896.8.27~1933.9.21・享年37歳)の名前が渾然一体となっていた。だから恥ずかしいことに、たとえば「東海の小島の磯の白砂に・・・」と「雨ニモマケズ・・・」の作者が啄木だったか賢治だったか判然としていなかったほどである。そして私の成長の過程のなかでこの二人の名前と作品が少しずつ区別できるようになるにつれ、啄木と賢治の生き方と作品に次第に興味を持つようになった。だが社会人になると啄木と賢治に興味を持つことはなかったが、仕事を辞めてからあらためて啄木と賢治に触れたくなり二人の本を読み返したり、関連した資料などに興味をもったりすることが多くなった。

短い期間ではあったものの啄木が生活していたことがあったせいか、函館には啄木の像や墓や歌碑が点在していて、図書館や文学館にも啄木の関連した本や資料が多い。歌集「一握の砂」にも函館への思いを馳せた歌が少なくない。啄木の歌は家族や友への思いや移り住んだ土地への郷愁など私の好きな歌が多い。だが一方、過剰なナルシズム、自己中心的性格、恋愛依存症的振る舞いなど、私は啄木に対してある嫌悪のような印象をずっと持っていた。しかし私が感じる嫌悪、つまり啄木のナルシズムや自己中心、恋愛依存こそが啄木の歌の創作エネルギーの糧だったのかもしれない、今はそう思うようになった。

そして啄木は「時代閉塞の現状」という文章も書いていて、読むと自らの生活苦もあって格差社会の不条理について論じていて、社会主義的思想に向かうところも興味深い。

さて、仕事を辞めてから絵本を読むのが好きになり、特に伊勢英子の絵本を買い集めて読んだものだった。そして「よだかの星」、「ざしき童子のはなし」、「風の又三郎」、「水仙月の四日」など賢治の童話を題材にした絵本が多い。そのせいか賢治の作品を読むと文字と絵が融け合ってひとつのイメージが浮かぶことが多い。

賢治は一時期東京に住むことがあったものの、盛岡の花巻に定着し詩や童話や歌曲の創作と農業の教育や研究に専念する。そして賢治の生家が浄土真宗の敬虔な門徒であったせいか、既に七歳のときに「正信偈」や「白骨の文章」を諳んじていたほど仏教への関心を持っていたが、後に賢治自身は法華経の教えを中心とした国柱会に傾倒していく。

おそらく賢治の創作の根には農業への思いと仏教信仰があって、花巻に理想的世界を創ることに一生を捧げたと私は思う。現実は非常に厳しい生活にあって、敢えてイーハトーヴ、モリーオ、ハームキヤ、センダードなど現実の地名を無国籍的な言い回しで表現して賢治の理想郷を創造している。私は特に賢治の童話を読むと宇宙的理想郷にたゆとう気持ちになってくる。

啄木は社会主義思想に向かい、賢治は仏教信仰に向かう。私には啄木と賢治は思想的には正反対の方向へ向かっているように思えるが、その創作へ向かう姿勢というかエネルギーは等価だろうと思う。

話は逸れるが、啄木には母親、妻、妹など、賢治には母親や妹などがいて、当時の彼女たちの人生はどうだったのだろうと思うことがある。特に明治時代は文明開化の一方、女性が生きていくことの困難さは今の時代からは想像できないほどのことだったのではないだろうか。啄木と賢治の創作の姿勢と同時に抱いていた妹への情愛を思えば尚更そう思うのである。

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