「人生は、だまし だまし」

「ジョゼと虎と魚たち」を読んだのはいつ頃だったかそれ以来、田辺聖子(1928.3.27~)の深淵さと軽妙さが混じった言葉の心地よさ、対象を見つめる慧眼、そして作品の背後に見え隠れする理知が魅力だと感じている。

人生は、だまし だまし」
「人生は、だまし だまし」

最近「人生は、だまし だまし」というエッセイを読んだ。この本の冒頭、「・・・しかし私はかなり早くから『ラ・ロシュフコー箴言集』などに親昵(しんじつ)しており、アフォリズムそのものに心酔していた。・・・」とあるように24のキーワードについて著者自身によるアフォリズムを軸にとても面白く滋味のある内容になっている。この本からアフォリズムの一部を引用したい。

 

(以下、キーワードを〈key:・・・・〉、著者自身によるアフォリズムを《aph:・・・・》とする。)

 

●〈key:金属疲労〉では《aph:人間も金属疲労が出てからがホンモノである。》

●〈key:惚れる〉では《aph:女は愛されると確信した時に別れられる種族である。》

●〈key:家庭の運営〉では《aph:臭いものには蓋。それは家庭の幸福。》

●〈key:いい男〉では《aph:いい男とは、可愛げがあってほどのいい男である。》

●〈key:老いぬれば〉では《aph.01:人間のトシなんて、主観的なものである。》、《aph.02:老眼鏡と杖さえあれば、老いもこわくなく、わるいものではない。》、《aph.他:「老いぬればキレやすし。」「老いぬれば転倒(こけ)やすし。」「老いぬればうろたえず。」「老いぬればムキになりやすし」》

●〈key:ヒトと暮らす〉では《aph.01:悪夫とは、妻にホトケごころを出させる男をいう。》、《aph.02:悪妻とは、〈信条〉をもつ女である。》、他

●〈key:気ごころ〉では《aph.01:夫婦とは、気ごころの知れた関係である。》、《aph.02:気ごころ知れるということは悲しい。相手に多くを要求してはいけないと悟るから・・・》

などなど、辛辣な諧謔のなかにも優しさが滲むような、人を愛おしむような文の流れがあって、その流れに任せて読むとこれらのアフォリズムの妙を味わうことができる。

田辺聖子は生きるということは何か(彼女なりの言い方では神サンといっている)から命をお借りして生きることだという考えを基本的に持っている。人間は生きることが困難な中にも「喜」を見つけ、社会の不条理に「怒」を感じ、人の世の空しさに「哀」を味わい、男女の恋の駆け引きで交わされる機微に「楽」を興ずる。そういう人間が智に働いて角が立っても、情に竿をさして流されても、そこそこの智とそこそこの情を神サンからなんとかお借りして使わせてもらいながら生きるしかない、この本はそんな風に思わせてくれる不思議な説得力で語りかけてくれるエッセイだった。

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