マタイ受難曲

今夜から明日の夜の間はイエス・キリストの誕生を祝う降誕祭である。昨年のクリスマス・イヴは渡島当別にあるトラピスト修道院へ行ったが、今夜は何処へも行かずに家に閉じこもっている。所在なげにしていると何となく音楽を聴きたくなり、さて何を聴こうかと思案して手に取ったCDがカール・リヒター指揮のマタイ受難曲 である。降誕祭なのに磔刑という受難を題材にした音楽を聴くのはおかしいのかもしれないけれど、キリスト教の信仰者ではない私のことだから仕方ないこととご容赦願いたい。ただ、新約聖書においてイエス・キリストの降誕、受難そして復活はそれぞれ切り離すことが出来ない神の御業だと思っているので、私の中では降誕祭にマタイ受難曲を聴くことはそんなに不自然なことではない。

このCDは5年前に購入したのだが、同じカール・リヒター指揮のものでも1958年録音のものにしようか1979年録音のものにしようか迷ったことを思い出す。何しろこのCDは私にとって高額だったから購入にあたり慎重になり、図書館のCDを借りて聴いたり、インターネットで聴いたり、色々な評判を見聞きした末に1958年録音のものを購入した。でも今でもどちらがいいのかよく分からないまま折々に聴いている。

さて、このCDは聖書のマタイによる福音書26、27章に書かれている出来事を、素晴らしい声楽家、合唱団、管弦楽団、指揮者によって壮大な宗教音楽に昇華していて聴くほどに引き込まれていく。ユダの裏切り、最後の晩餐、逮捕、裁判、ペテロの否み、ピラトの尋問、死刑判決そして磔刑と、マタイによる福音書の26、27章は新約聖書のクライマックスともいえるだろう。そして28章のイエスの復活をイメージしながら、このマタイ受難曲を聴き終え、バッハの驚嘆すべき天性に想いを馳せる。

マタイ受難曲は宗教音楽ではあるけれど、また神の子イエスの話ではあるけれど、一人の人間としてのイエスの運命を辿る大叙事詩ではないかと感じるのである。・・・そして今ある人のことを想う。今月4日にアフガニスタンのジャラーラーバードの車中で何者かに銃を撃たれ搬送中に命を落としたペシャワール会現地代表の中村哲さんである。クリスチャンである中村哲さんの今までの活動を気高い義気を越えた神からのミッションだと考えたとき(そう考えるのは不自然ではないと思うのだが)、中村哲さんの悲痛な死は正にイエス・キリストの受難と重なってきて、中村哲さんの身罷りを聖なる受難だと思えてしかたがない。弱い立場の人々の尊い命や細やかな暮らしの営みを奪い破壊する人間たちの贖罪を引き受けるように身罷った聖なる受難だと思えてしかたがないのである。

・・・信仰者ではない私のマタイ受難曲への勝手な解釈に遊び、中村哲さんへの鎮魂を想いつつ飲む安いワインの酔いに浸りながら独りごつ今夜である。

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