メメント・モリ

メメント・モリという言葉はラテン語で「人は必ず死ぬことを忘れてはならぬ」という意味で、古代ローマの勝利凱旋パレードで今勝利の絶頂にあるが明日はわからぬという戒めに使われていたという。さらに「明日死ぬかもしれないから生きている間は享楽的に楽しもう」とか、宗教的な意味合いから「現世での楽しみは空しい、来世を想って生きよ」といった様々な解釈もあるという。

 

写真集「メメント・モリ」
写真集「メメント・モリ」

 

メメント・モリというこの言葉を初めて知ったのは作家でもあり写真家でもある藤原新也の写真集「メメント・モリ」(2008年刊行)だった。

最初のページを開くといきなり「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ」という表題が現れ、さらにページをめくれば下記の文章が書かれている。

 

いのち、が見えない。 生きていることの中心(コア)がなくなって、ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、口で嚙むとシュッと溶けてなさけない。 死ぬことも見えない。 いつどこでだれがなぜどのように死んだのか、そして、生や死の本来の姿はなにか。 今のあべこべ社会は、生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。 街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ。

本当の死が見えないと本当の生も生きられない。 等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識(こころ)をたかめなくてはならない。 死は生の水準器のようなもの。 死は生のアリバイである。 MEMENTO-MORI この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中性末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。その言葉の傘の下には、わたしのこれまでの生と死に関するささやかな経験と実感がある。

 

この写真集は上記の文章にあるように空疎な現代に生きる私たちに写真という媒体で生きるとは何なのか、死ぬとは何なのかと視る者に問いかける。

一方、この写真集を視て生々しい写真で迫る作者の死生観に影響されて若い女性が自死したということもあるように、繊細な感受性をもつ人によっては死への憧れを抱く危うさをも内包している。

私は1974年にインドとネパールに行き、ガンジス川の支流でヒンドゥー教徒の死者を火葬する場面に出会ったことがあった。その34年後にこの写真集を視てまざまざとあの火葬の記憶が蘇ったことを思い出す。作者は死体を犬や鳥が食いちぎる写真に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というキャプションを附して視る者に話しかける。

1944年生まれの藤原新也は高度成長の日本の中で社会と自身の生き方とのズレを感じながら生きてきて、そのズレから生ずる空隙を埋める作業を写真と言葉で表現し続けているのだと思う。その空隙を埋める作業の一断面がこの写真集なのである。

「メメント・モリ」・・・この写真集は人を死へ誘っているのではない、人は死へ向かう現実に生きている、だから生きている今をどう生きるのかを視る者に囁く藤原新也からのラヴレターではないだろうか。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。