二重奏

「みすゞと雅輔」
「みすゞと雅輔」

今年4月25日のブログに「金子みすゞ」のことを書いた。それがきっかけで友人から貸していただいた本、松本侑子・著「みすゞと雅輔」を読んだ。

金子みすゞの評伝は矢崎節夫・著「童謡詩人 金子みすゞ」や今野勉・著「金子みすゞ ふたたび」などがあるが、この本は金子みすゞの実弟・上山正祐(雅輔の実名、以下雅輔と書く)の日記や手紙などの資料や関連資料をもとにした弟・雅輔の評伝小説である。雅輔が主人公になっているが全体の文章の流れに姉・金子みすゞの一生を滲ませていて姉弟の二重奏の物語となっている。

雅輔は1905年、日本海の小さな漁師町、仙崎に父・金子庄之助と母・ミチの間に生まれる。兄は堅助、姉はテル(みすゞの実名、以下みすゞと書く)、雅輔1歳のとき下関の書店・上山文英堂の清国(今の中国)営口支店長であった父・庄之助が不慮の死をとげ、母・ミチの妹・フジの嫁ぎ先の下関にある上山文英堂の上山家に養子に出される。そのいきさつを知らされないまま雅輔は成長する。みすゞを憧れの従姉としてみて青年となるも養母・フジが逝去し母・ミチが養父・上山松蔵と再婚し、みすゞは義理の姉となる。このような複雑な家族関係のなか雅輔はみすゞの童謡詩人としての才能に刺激されながら、みすゞに負けまいと自らも分筆、作詞、作曲、芸能作家などの道に夢を膨らませる。しかし雅輔を上山文英堂の跡取りと考えている養父の意向との狭間で悩むが東京で自分の夢を実現するべく下関を離れる・・・。

一方、みすゞは西条八十に認められるほど童謡詩人としての才能を開花させる。しかしライバルも出てくる、時代が推移するにつれ童謡形式の詩作が世に受入れられなくなり詩人としての創作に悩む。上山文英堂に母と同居するも母の夫・松蔵への気遣いもある。そもそもの控えめな性格から詩人として自分を売り込む意思もない。結局みすゞは上山文英堂の番頭格の店員・敬一と結婚、そして娘・ふさえが生まれる。結婚をしてもみすゞは詩作を辞めることができない、そのことに夫は不満をもち放蕩、病気がみすずに感染し体調がどんどん思わしくない状態になり、離婚することになるが夫は娘・ふさえの親権をみすゞに渡さない・・・みすゞは自死の道を選ぶ。

そして雅輔は紆余曲折ののち、1949年、妻・容子、娘・八重とともに東京で劇団「若草」を立ち上げる傍ら、姉・みすゞの遺稿を世に残すべく1984年に遺稿集が出版されて金子みすゞの童謡詩が注目されるようになる。

この本は姉・みすゞと弟・雅輔の二重奏物語だが、なぜみすゞが自死という道を選んだかというテーマも潜む。

人間は存在そのものがなんらかの形で他者にとって迷惑な存在である宿命をもつ。みすゞの存在はどうであったか、「みすゞと雅輔」を読むと迷惑な存在の欠片もない空気のようである。空気のような存在だったみすゞの死は関係する人々をみすゞの喪失に改めて悔恨の想いに浸らせる。

だが、娘を母に託してまで死を選んだのはなぜか。詩作への悩み、病気、離婚など色々な推測があるが、みすゞのことを理解してくれる人が誰もいなかったからではないだろうか。心からの救いの叫びを誰も気付いてくれなかったのではないだろうか。改めてみすゞの童謡詩を読むとひとつひとつの言葉からそのように感じるのである。

「金子みすゞ ふたたび」
「金子みすゞ ふたたび」

「みすゞと雅輔」の中にも書かれているが、みすゞは仙崎にある遍照寺の無縁墓に眠っている。当時、無縁墓には殺されたり、自殺したり普通でない死に方をした人を埋葬したようである。

以前に読んだ今野勉・著「金子みすゞ ふたたび」にも無縁墓のことがかかれてあり、みすゞの死は無縁墓と関係があることを示唆的に書かれてある。

みすゞが自死を決意するにあたり自分は無縁墓に眠るということを分かっていた筈である。つまり自分が生まれて出会った人々と死の決別によって無縁でいたかった、純粋に自分の童謡詩だけが人々の心に残ることだけを祈って死を決意したのだはないだろうか。

金子みすゞの評伝を読んでも読まなくてもいい、敢えて今年4月のブログに書いたことを再度ここに書きたい。

どこまでも優しいことば、どこまでも柔らかいことば、どこまでも楽しいことば、どこまでも哀しいことば、どこまでも軽やかなことば、どこまでも深いことば、そしてどこまでも大切なことば…。

それだけで心が満たされる。

 

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