佐野洋子

先週、風邪に罹った。熱も引いて咳も和らいで大分楽になったがまだ頭がふらつく感じが残っている。

「佐野洋子」
「佐野洋子」

そんな時にMUJIBOOK「佐野洋子」はふらつく頭に味わい深い言葉をいい感じでブレンドさせてくれた。

佐野洋子というひとは、独特の観察力を持っている。機知に富んでいる。優しい思い遣りもある。切っ先の鋭い目線もある。気恥ずかしがり屋のひとでもある。人並みに恋をしてきた。人並み(以上)に苦労もあった。、、、なんだかんだで物事の判断の規準が「普通であること」がデフォルトになっている。拘りといってもいいかもしれない、いや拘りといったらすこし違っているようにも思う。彼女の「普通であること」はなかなか只者ではないのだ。

この本に書かれている中から少し引用したい、、、

〈私は、子どもが人を愛せる力を持てれば、それがすべてだと思う。〉

〈「なるべく当たり前の家」「目立たない家」「建築家が建てたようじゃない家」と注文をつけて建てたの。〉

〈私は何のために生きてるのかというと、日常生活をするために生きてるの。〉

〈一人前になるのは大変である。一人前になってからも大変である。〉

、、、等々、佐野洋子らしい言葉である。家のことについてもよく分かる。奇を衒う建築家が多いからだ。事ほど左様に「普通であること」の言葉はなかなか味わいがあって、ふらつく頭になぜか心地よく滲みてくる。

さて、調布にいた頃、孫たちがよく私のところに泊まりに来て、孫たちにせがまれて絵本の読み聞かせをしながら寝かしつけたものだった。昼間、公園で思い切り遊んだあと、図書館に行って絵本探しをして背中より大きいリュックに絵本を詰めてヨイショと背負って爺さんに読んでもらう算段である。そのリュックの中に佐野洋子の作品が混じっていたのは言うまでもない。

孫たちに理解されていたかどうかわからないが、佐野洋子の絵本に共通して感じるのは柔らかいタッチの絵と生きとし生けるものの命を慈しむ優しい文だった。特に「100万回生きた猫」などはそう思う。

はたして孫たちにどのように理解されていただろうか、爺さんが読み聞かせた絵本がこれからの成長の過程でどのような糧になるだろうか。

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