入院その二

病院のパンフレット
病院のパンフレット

暇にまかせて看護師さんの制服のことからあれこれ考えた。

一般に病院で仕事をされている皆さんは其々の専門の職務によって制服を纏って働いている。この方は医師でこの方は看護師でと制服がアイコンの機能を果たしていて分かり易い。おそらく私たち患者からだけでなく職場のスタッフ同士からも判断できる効果がある。

話が変わるが、公立の小学校、中学校、高校でも生徒が制服の着衣を義務付けている学校があって、制服の義務付けに反対をしているグループがあるという。生徒たちの個性を無視して個人の自由な権利を毀損しているという主旨のようである。

ここで問われているのは「制服と個性」をどう考えるかということだろう。

病院の制服と学校の制服とではその制服のあり方は同一に語れないので難しいが、入院中の私の病床に看護にくる看護師は同じ制服を着ているものの明らかに彼女たち其々が持っている人間性の違いが感じられ、制服が人格を毀損しているとは思われない。おそらく学校の教師も同じ制服を着ていたとしても生徒たち一人一人の人格を前提に踏まえなければ教育などできるものではないだろうと思う。

巷間、個性的なファッションや生き方といって雑誌やTVで如何に他人と違う装いや行動を競うように表現しようと懸命になっている世相を感じる。見ていて面白い現象だと思う一方、全部が全部とは言わないまでも果たして個性的だという意図とは相違して寧ろ無個性的とさえ思えることもしばしばあるのは、溢れ乱れる情報化社会の影響や核家族化社会の影響もあるのかもしれない。

なんとか表面上でしか個性的であるフリをする術しかないとても生きるのに難しい時代なのかもしれない。それはイジメ、登校拒否、あてのない自分探し、などと無関係ではないように思う。

もしかしたら団塊の世代にいる私たちが敗戦後の高度成長の時代に人が生きる意味について頓着せずにきたツケがこの社会に回ってきたのかもしれない。

そもそも人間は個性的でなければならないと思うこと自体、脅迫的な幻想かもしれない。人は命を授けられて命を全うすること自体が個性なのであって、どのように生きるかを自分にどう問うことがその人間の個性ではないだろうか。逆説的に云えば個性を云々と我執しないで没我して生きることが大切という東洋思想めいたものに意が傾くのは歳のせいだろうか。

「制服と個性」について纏まりのないことを暇にまかせて書いてみた。

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