広島ピースセンター

今年も新型コロナウイルスのため限定参加人数ではあるが広島平和記念式典が広島ピースセンター(広島平和記念資料館および平和記念公園)で執り行われた。

1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍の原爆「リトル・ボーイ」が広島中心部の相生橋めがけて投下され、広島市街地のほとんどが焦土となりこの年の末には約14万人の人々が亡くなった。

建築家・丹下健三(1913.9.4~2005.3.22)は東京帝国大学大学院の時代に父親の危篤のため、故郷の愛媛県今治市へ向かう列車の中で広島原爆投下のことを知る。そして母親も6日に空襲で亡くなっている。そういう経験から、丹下は広島原爆投下には特別な深い思い入れを持っていた。

戦後、戦災復興院では各地域の都市復興計画があったが、調査依頼にあたってたいていの人が広島の調査を嫌がる中で、丹下は大学院研究室の仲間と率先して調査を申し出て広島に入った。焦土と化した市街地は調査にあたって困難を極めたようである。なんとか作成した計画書は1947年の市議会で決定した復興計画案に反映されたという。その後も丹下と広島との関わりが続き平和記念公園のプロジェクトにも参加している。

そして1949年5月に広島ピースセンターの設計競技が開催される。設計対象は平和記念公園のランドスケープデザインと平和記念館(現・広島平和記念資料館)である。全国から132もの応募案があり、丹下健三グループ案はそのなかの一つ、最終的に丹下健三グループの設計案が一等となった。実施設計は設計案と少し変更されているものの丹下の設計思想は貫かれている。その設計思想とは広島ピースセンターが平和を祈り、平和を創造する場であることである。

その設計思想の中心となるのは配置計画で、平和記念館から慰霊碑をとおして広島原爆投下の象徴である原爆ドームが南北の軸線一本で見通せるように配置し、その軸線の先に見える原爆ドームに向き合うように平和記念館を東西に配置している。この広島ピースセンターと原爆ドームが一対となった空間が平和を祈り、平和を創造する場となってほしい、丹下の切なる想いがここにある。秀れた建築は唯物ではないことを改めて認識する。

今は亡き建築家・丹下健三を思いながら今日の広島平和記念式典を観た。

 

 

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