1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍の原爆「ファットマン」が長崎浦上地区に投下された。ちょうど75年前である。原爆によって約7万4千人が亡くなり、市内の約36%の建物が全焼もしくは全半壊、その中に浦上天主堂があった。
ところで広島原爆投下で全半壊した建物のうち広島県産業奨励館は新たに建て替えすることなく焼け崩れたまま原爆ドームとして遺った。原爆ドームをそのまま遺すことによって原爆投下の惨禍を象徴し、平和を希求する意味を持つと同時に戦争への反骨や抵抗の意思を潜ませていて怒りの広島とも言われている。
一方、被爆地長崎は祈りの長崎と言われている。焼け崩れた浦上天主堂を原爆遺構としてそのまま遺すこともあってもいいはずであるが新たに同じ場所に浦上天主堂を建てた。キリシタンの人々が多く住んでいた場所にキリスト教を信仰する人々が多いアメリカ軍が原爆を投下したのである。古に自国の公権力から非道な信仰弾圧を受け、そして後世に他国から凄惨な原爆投下を受けた長崎のキリシタンの人々はどんな心情だったのだろう。
さて、随筆「長崎の鐘」を執筆した永井博(1908.2.3~1951.5.1)は医師でありクリスチャンでもあった。永井の著書「原子野録音」、「いとし子よ」、「花咲く丘」などに・・・原爆投下した敵を憎んではならない、戦争にあるのは勝ち負けもなくあるのは滅びだけ、戦争はこりごりだ、平和を、永久平和を、この叫びを私は伝えたかった・・・など戦争への怒りではなく平和への祈りをという主旨が書かれている。この戦争への怒りではなく平和への祈りをという永井の思想は長崎の多くの人々の心奥に定着しているのかもしれない。今日の長崎平和祈念式典でも小学校の児童たちによる永井博・作詞の「あの子」の合唱があった。
浦上天主堂を戦争への怒りの場として遺構するのではなく、平和を祈る場として新たに建てられたと解したとき、長崎の多くの人々は祈りの長崎でありたいと切に願っているのではないか、そう思えるのである。
そういえば広島で行われるのが広島平和記念式典、長崎で行われるのが長崎平和祈念式典というようである。