映画「沈黙」

遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を観た。公開日の昨日、客席数70数席の小さな映画館シネマアイリスはほとんど60歳代以上と思われる観客で埋まっていた。

スコセッシは1989年公開の「最後の誘惑」を撮り終えた頃に小説「沈黙」を読んでこの小説を映画化しなければならないと思ったそうである。約30年間スコセッシは小説「沈黙」と格闘しながら永い年月を経ていま映画「沈黙」を世に問うている。この映画を観てスコセッシの問いかけをどのように受け止めたらいいのかその答えを自分の中に見いだすのは容易ではなく、仮にここに何か書いたとしても後日繰り返し書き直すことになるだろう。ただ、あなたがこの映画を観て何かを感じたことがあればそれが真実なのだとスコセッシがどこかで書いていたことは救いである。

私が1989年3月に観た映画「最後の誘惑」はイエスとマグダラのマリアそしてユダを中心に描いていて、ユダを「弱き人間」として描いていた。映画「沈黙」はロドリゴ神父、フェレイラ神父、そしてイチジローを「弱き人間」として描いていた。

また、遠藤周作は切支丹時代の「弱き人間」つまり棄教して殉教できなかった人間について記録された資料が全くなく、「弱き人間」を迫害者側も被迫害者側も棄教者を歴史から黙殺しているように思える、それでいいのだろうか、「弱き人間」を書くことこそが文学者である自分がしなければならぬことだと著書「切支丹の里」で書いているという。

神の「沈黙」のなかに「弱き人間」への救いはあるのだろうか、これがスコセッシが小説「沈黙」を読んで映画にしたかったテーマだったと思う。

小説では書かれていないが、仏教に改宗させられた「弱き人間」ロドリゴ神父が棺桶に眠る最後のシーンで、ロドリゴ神父の懐に小さな十字架が抱かれていた。神の「沈黙」のなかに「弱き人間」への救いはあるのだろうか、いや神の「沈黙」は「赦し」そのものなのだと最後のシーンが語っていたように感じた。

映画「沈黙」は台湾がロケ地だったらしいが、小説で書かれていた舞台の茂木や長崎市外海地区を地図で見て想像した場所と違和感がなかった。また、キャストもすべて素晴らしく、特にモキチを演じていた塚本晋也の存在感が記憶に残った。

話は変わるが、今も世界では内戦や紛争が絶えることがない。絶望的な争いで犠牲になるのは常に「弱い人間」である。残酷で無惨な死、やむなく難民になり離ればなれになった家族の再会を願うものの叶わないまま異国の地で排他の身に晒される現実に光は差さない。「弱い人間」への救いに無力な世界に向けてスコセッシは映画「沈黙」を通してこのようなことを訴えたいとどこかのインタヴューで言っていたことも記憶に残っている。

2件のコメント

  1. 剛君のブログを読んでスコセッシ監督「沈黙」の映画、遠藤周作の小説、いずれにしても最後は読み手の考えに自由に裁量を与えているのだと思えて深く考えされる文章であった。
    話は変わるが昨日大相撲の初場所が終わったが、十四日目で稀勢の里の優勝が決まった時に稀勢の里のインタビューで感動する場面があった。それは最近の相撲がショウー的に一般受けの行動が多く見られ中で彼は寡黙の中にアナウンサーの喜びの一言に「今まで多くの人の支えがあり」といったところで一筋の涙を流したところの映像で後ろを向いて立って行った。まさに「沈黙」のなかの一言、一筋の涙、日本人の所作の考えさせられる場面であった。

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