沖縄戦終結から74年が経った今日、沖縄のことを考えてみたい。
だが私は沖縄の歴史についてよく解っていないことにあらためて気がつく。そこで私なりに沖縄の歴史について調べてみた。それは奪われしトポス(故郷)の歴史そのものだった。
琉球列島は先史時代に旧石器文化そして縄文文化があり、10~12世紀に農耕文化が定着する。その頃、奄美諸島から八重山諸島一帯の琉球列島に農耕文化の象徴として300余りのグスクと呼ばれる場所があった。グスクは柵や堀で周囲を囲んだ城郭の形態をもち、地域のコミュニティの形成と他勢力からの防御機能も持っていたようである。特に沖縄島のグスクは農業生産の向上に伴って東アジア、東南アジアとの交易が発達する。そうすると各グスク間の勢力争いののち各グスクの地域統合が進み、三つの政治的体制(北山・中山・南山の三山)ができる。
一方、中国では1368年に元の後に成った明は周辺国に明の建国を知らせると共に朝貢を促すようになり、琉球王国以前の三つの政治体制は明国への朝貢に応じ、明国との交易が進むようになる。
そして1429年に琉球列島の統一国家である琉球王国が成立する。琉球王国成立後の第一尚氏王朝そして第二尚氏王朝では中国、東南アジア各国との海外交易が盛んになる。
だが、やがて1605年に琉球王国にとって最初の受難を被ることになる。江戸幕府の薩摩藩の琉球侵攻である。
薩摩藩の琉球侵攻以前、琉球王国は薩摩藩と親交関係があった。その頃、東南アジアとの海外交易が下火になっていて交易相手は中国と薩摩藩だけになっていた。そして中国では明国の威勢も衰え、薩摩藩は琉球王国にとって重要な交易先となっていて、そのような立場から領土拡大を目論んでいた薩摩藩は次第に琉球王国へ高圧的な姿勢をみせるようになる。薩摩藩は戦国時代という国内の情勢で財政逼迫の事態にあり、領土拡大と藩内権力一元化を画策して琉球王国侵攻となったのである。
薩摩藩の侵攻後、琉球王国は薩摩藩支配に隷属し、片務的な交易、王号から国司号への強要、地頭などによる無法などが横行する。しかし、1666年、摂政に就任した琉球王族出身の羽地朝秀は政治改革をして琉球王府の行政機構を整備し、琉球文化も高まってきた。しかし薩摩藩支配であることに変化はない。
やがて明治維新後、江戸幕府が日本政府に変わると、1872年に琉球国王を藩主とする琉球藩が設置され、更に1879年に沖縄県が設置され、日本本土の歴史や文化の同化政策が進む。そして日本の戦争体制の流れに組み込まれていき、太平洋戦争の沖縄戦という悲惨の極みともいえる受難によって多大の沖縄民間人の犠牲者を出すことになる。
終戦後も沖縄でのアメリカによる沖縄統治という受難が続き、そしてアメリカから返還されてから今も不条理な状況は変わることがない。
繰り返しになるが、沖縄は奪われしトポス(故郷)の歴史そのものと言っていい。沖縄は地政学的にそれは必然の運命だという人もいるが、それでは済まされない不条理の上に私たちの暮らしの営みがあることを忘れてはならない。
さて、友人から借りた本、真藤順丈・著の「宝島」は戦後のアメリカの統治下にあった沖縄を舞台に戦果アギヤーの若者4人の躍々としたストーリィだった。その文中、・・・おれは最近、思うんだよな。ほんとうに目の仇にしなきゃならんのはアメリカーよりも日本人(ヤマトンチュ)なんじゃないかって。デモで声を上げるのが民主主義の基本だなんて復帰協は言うけど、この島の人権や民主制はまがいものさ。本物のそれらはもうずっと、本土(ヤマトゥ)のやつらが独り占めにしてこっちまで回ってきとらん・・・と主人公のひとりが言う一節がある。私は今まで抱いていた心疚しさの理由がこの一節に集約されているように感じた。
そしてこの小説の中で、ひとりの戦争孤児の存在が大きな意味をもつことになるのだが、NHK戦争証言アーカイブスで親と死別や生き別れになった沖縄の戦争孤児についての証言がある。この証言からいつの時代も戦争で犠牲になるのが罪なき子どもであり、胸が締めつけられる思いになる。
沖縄全戦没者追悼式が行われた今日、沖縄のことを色々と考えさせられた。沖縄を考えるということは、当然のことながら沖縄から遠く離れて住む私であっても沖縄とは関係のない傍観者ではありえないということであり、当事者として日本が抱える不条理から目を背けることはできないということだった。