良心と非暴力

様々な報道で見聞きするたびに、幼い無辜の命を奪う非道な事件、配偶者や内縁者による家庭内暴力、社会から排除しようと心身に障害をもつ人たちを殺傷する事件、介護施設内で頻発する老人への虐待、学校などでのいじめなど弱い立場の人たちに向かう身体的、精神的な暴力は絶えることがない。

およそ暴力の行為者は普段は良い人という評判の人物が多い。もしかしたら日常的に良い人であるように振る舞っているのかもしれない。いや本当に彼らは自身を良い人だと自認しているのではないだろうか。振り返って私はといえばどうだろうか。自分の中に意識的にも無意識的にも良い人だと思われたいと振る舞っていないだろうか。

そもそも良い人であることは人間にとってそんなに大切なことなのだろうか。むしろ悪い人にならないようにするという程度のことでいいのではないだろうか。言い換えれば良い人であることより良心を持つことではないか。人それぞれ良心の捉え方は違ってもいい。笑われるかもしれないが、私の良心とは自分のなかには必ず悪の部分があって、その悪が行為に転化するとその行為は必ず(神か仏か先祖かわからないが)誰かにみられていると思って自制する心が自分の良心だと思っている。ちっぽけな良心である。

ガンジーの慰霊碑
1974.6.3撮影 ガンジーの慰霊碑

ところで、1974年6月上旬、私は寺院建築や民家そして都市計画などを視察するためネパールとインドに行ったことがあり、インドのニューデリー・ラージガートにガンジーの慰霊碑がある。その慰霊碑に七つの社会的罪と題した碑文が刻まれている。その七つの社会的罪とは「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき学識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき信仰」である。

万人が周知のようにそのガンジーの生涯は非暴力という思想で貫かれている。ガンジーは無抵抗主義というような捉え方もされているが、ガンジーの非暴力思想はけして無抵抗の行為ではない。弱い立場の人々が自分の生の尊厳を守るために立ち向かう最高の抵抗行為として非暴力の意思を用いるのである。

七つの社会的大罪は現代のあらゆる世界にもみられる。私たちはガンジーの強靭な非暴力思想の意味を今こそ再考するべきではないだろうか。強靭な非暴力思想を持ち得ないとしたらそれに代わるものは何かを一人一人が考えるべきではないだろうか。

私はちっぽけな良心非暴力思想と無関係ではないと思っている。ガンジーのような強靭な非暴力思想を持てなくとも自分なりのちっぽけな良心だけは持てるのではないかと思うのである。

 

ガンディー・魂の言葉
ガンディー・魂の言葉

ガンジーは心に残る言葉をたくさん残している。上の本から一節の言葉を下に紹介したいと思う。


日本人に贈る言葉

あなたに差し上げるメッセージは次のことに尽きる。

「日本が古来受け継いできたものに忠実でありなさい。」

仏教が興ってから二千五百年たつのに、その教えはまだ真に生かされてはいない。

しかし二千五百年が何であろう。時の巡りの中の一瞬にすぎない。

仏陀が説いた不殺生・非暴力の花が、いまはしおれかけているように見えるが、それを精一杯、満開に咲かせなさい。

1938年12月24日


 

 

 

 

 

 

 

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