赦し〜憎悪や恨みを超えて

函館のミニシアターで映画「MINAMATA」を観た。監督はアンドリュー・レビタス、主演・制作はジョニー・デップである。1970年初頭、写真家ユージン・スミスは日本の写真家と通訳のアイリーンの訪問を受け、日本の化学企業による公害によって住民がその被害で病に脅かされているから取材をしてほしいと頼まれる。ユージン・スミスはその後妻となるアイリーン・美緒子と熊本県水俣市を訪れ、化学会社チッソの工場から豊かで美しい不知火海に有害物質が垂れ流され、その公害で被った水俣病患者の人々の現実に直面して衝撃を受け、様々な困難な報復を受けながらも撮影しその実態をフォトジャーナリストとして報道し、遺作となる写真集「Minamata」に結実させる。この映画はユージン・スミスとその妻アイリーン・美緒子・スミスからの視点をとおして水俣問題を映像化した内容であった。そしてユージン・スミスのフォトジャーナリストとしての生き様が伝わってきて興味深い映画だった。

この映画は一般公開する前に水俣市で先行上映された。地元の反応としては、史実にどれだけ忠実か、制作意図が今ひとつ不明、いまも苦しんでいる被害者への差別・偏見の影響はないだろうか、水俣病について触れられたくないという思いを持つ市民もいる、など微妙な反応があった一方、この映画を世界中の人たちに観て水俣病のことを知って貰い、水俣病の奥底に抱える課題の本質を考えて貰えることを期待するという反応もあったという。私はこの映画を観て地元の方々の前者の反応にも気持ちを寄せてみたいものの、後者の反応に近いものを感じるといった複雑な思いが私の中で葛藤する。

さて、2年前に水俣病患者当事者の立場から水俣問題について制作されたテレビ番組を観た。この番組を観て「赦し」とは何だろうと考えさせられたことを思い出す。「ハートネットTVシリーズ水俣から考える」という番組で、水俣に住む被害者のご家族をもちご自身も水俣病患者である緒方正人さんと緒方正実さんのドキュメントだった。

緒方正人さんは漁師、1959年に正人さんの父親が突然、水俣病になった。やがて父親は食欲もなくなりやせ細って亡くなる。その後、ご家族が次々と水俣病に罹り20人以上が発症した。その当時、水俣病は原因不明の病だったため、周囲から奇病、伝染病と差別や偏見を受けていたという。やがて水俣病の原因は化学会社チッソの工場排水であることが判明し、汚染された不知火海の魚を食べた人たちの多くが水俣病の症状が現れてくるようになった。子どもながらに正人さんは父親に毒を飲ませたチッソを憎悪と恨みの対象として捉え、仇討ちをすることが父親への手向けだと考えるようになる。そして20歳代からチッソ、国、行政に対し患者認定や補償交渉に積極的に関わっていき、その闘いは10年以上に亘った。そしてその闘いのなか、なぜ認定や補償という金銭で解決しようとしているのか、加害者の責任とは結局は金銭に代わるものでしかなかったのかと悩むようになる。そして漁師として生きてきた自らに問いかける。自分は果たして善人だったのだろうか、自分は海から魚を捕って暮らしをしてきた、魚の命を奪って暮らしをしてきた、自分も罪深い存在ではないか、チッソの責任といいながら自分はどうなのか、自分もチッソの社員だったとしたら同じ事をしていたかもしれない、同じ事を絶対しないと本当に言えるだろうか、と思うようになった。

正人さんは、チッソの正門前に坐り従業員ひとりひとりに語りかけようと決意し、従業員からも正人さんに語りかけられるようになる。正人さんはチッソの人たちを憎悪の対象と捉え、彼らは家族を苦しめた悪魔、鬼だと思ってきたが、しかし彼らひとりひとりを人間として受け入れるようになる。正人さんは言う、赦した相手はチッソだけではなく、自分自身をも赦すことだったことに気付き、自身の中にあった憎悪や恨みから解放されたと。チッソが垂れ流し続けた汚染物質である水銀は150トン以上だという。熊本県はその処理のため汚染されたヘドロや魚を2500本以上のドラム缶に入れ海を埋め立てて58ヘクタールという広大な埋め立て地ができ、運動場や市民のための広場となった。だが埋め立てることで水俣病のことは終わらせてはならない、罪を犯した者の目覚めこそが大切ではないか、正人さんたち水俣病患者が自ら石仏を彫り、埋め立て地に1994年から石仏を建て続け犠牲になった生きものたちに奉ずる活動をしているという。正人さんは「赦し」は決して水俣病の根底にある問題を終わらせることではないと言う。水俣病に終わりはないのである。

次に緒方正実さんのドキュメントだった。正実さんは家具職人、漁師の網元で生まれた。2歳のとき、祖父を原因不明の病で亡くした。急性劇症型の水俣病で、やはり20名以上の家族が罹りチッソによる工場排水が原因だと判明しても奇病、伝染病と周囲から差別や偏見を受け、正実さんは水俣病であることを隠し、水俣病の報道にも意識的に避けていたという。娘さんが幼い頃、将来学校の先生になりたいと言っていたその娘さんに「学校の先生になりたいなら、起きたことに目をそらさずに正直に生きることが大切」と言っていたが、その娘さんが大学に進学することになり父親の正実さんに感謝の気持ちを伝える言葉に続いて「お父さんこそ正直に生きてね」と言われた。そのときはっと気付く、水俣病であることを隠し忌避していた自分こそ正直に生きてこなかったのではないか、差別されないように隠し忌避してきたそのことが自分を含む被害者すべての人たちを差別してきたのではないか、と。それから正実さんは水俣病と正面から向き合うことを決意する。しかし自身の水俣病認定申請がなかなか認められない日々が続き、行政に対し怒りが募るようになる。正実さんの闘いは10年にも亘る。その間、組織対自分という闘いの構図として認識していたが、やがて相手を組織ではなく人として捉え、なんとか分かってもらえるように辛抱強く認定申請を続けることにし、行政の人たちに自分の思いを赤裸々に書いた手紙を送り続けることもした。そうすると相手も次第に変わってきたという。永い闘いの末、漸く熊本県知事から認定申請を認定するという手紙が届く。そこには10年間申請を拒んできたことの謝罪の言葉もあったという。正実さんは言う、熊本県知事の心からのお詫びに対し謝るということの素晴らしさを体験することができた、さらに正直に生きることの大切さをしみじみ感じたと。そして町のお店でチッソの社員に声を掛けられ、緒方さんに長い間大変苦労をおかけして本当に申し訳ない、これから私たちが一生懸命償いますと言われ、そのとき正実さんは「赦す」気持ちになったという。憎悪したり恨んだりすることでどんどん自分が苦しくなってくる、「赦し」は自らの「救い」でもある。

正実さんは水俣病の語り部として次世代の若い人たちに語りかける。「これほどの屈辱を味わった私が、相手を赦すまでの力を身につけたということを知ってもらいたいのです。10年間の闘いの中で気付かされました。私は人を恨むためにこの世に生まれたわけではない。水俣病という出来事と出会い、チッソを恨み、行政を恨み、世の中を恨んでしまったけれども、恨みを取り除く方法だってある。人に正直に生きるのではなくて、自分自身に正直に生きるということです。水俣病になって良かったとは決して思いませんけれども、水俣病になったことを私は後悔していません」・・・正実さんのこの言葉が胸に迫る。

・・・憎悪や恨みを超えて赦しという境地に到達する、それはどういうことなのか、水俣病患者当事者ではない私が到底理解できるものではない。しかし私の来し方行く末のなかでこの「赦し」という言葉が私の中に深く残ることだけは確かだと思う。


※ 私が水俣病について考えるきっかけになったのは、石牟礼道子・著「苦界浄土」を読んでからである。この本は安穏と日々の暮らしを享受している私に今何を考えなければならないかを問いかける本だった。なお、このブログで石牟礼道子について以下の投稿をしています。

2017.03.27 「苦界浄土」〜終わりなき問いかけ

2018.02.16  石牟礼道子の死を悼む

2019.01.21  嫗ふたり

 

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