香月泰男

香月泰男展の図録
香月泰男展の図録

私はこれぞと思った展覧会では図録を購入しているのだが、初めて図録を購入した展覧会は1995年に横浜のそごう美術館で開催された香月泰男展だった。香月泰男(1911.10.25~1974.3.4)の作品を観たいと思ったのは亡くなった姉がこの画家の作品に心酔していて、その影響があったからだと思う。そしてその香月泰男展の作品を観終わって、完全に打ちのめされたようにソファに坐ったまましばらく動けなかったことを思い出す。

特に香月泰男が1945年から2年間シベリアのクラノヤルスク地区のセーヤに抑留された経験を題材にしたシベリア・シリーズの作品に圧倒された。

香月泰男の「私のシベリア」で、・・・私にとってシベリアとは一体何だったのだろうか。私の個展をみにきてくれた戦友がこんなものはみたくないといった。もうシベリアのことなんか思い出したくもない、といった。私にしたって同じことだ。シベリアのことなんか思い出したくはない。しかし、白い画布を前に絵具をねるとそこにシベリアが浮かびあがってくる。絵にしようと思って絵にするのではない。絵はすでにそこにある。極端な言い方をすれば私のすることはそこに絵具を添えていくことだけといってもよい。・・・・と書いている。シベリア抑留の体験が香月泰男の心の深層に澱のように沈殿していて、絵筆をとおしてその沈殿物が白い画布に投影されているのだろう。

以前このブログで取り上げた佐藤忠良(1912.7.4~2011.3.30)も1945年から3年間シベリアのイルクーツク州タイシェットに抑留されている。そのときのシベリア抑留の体験を題材にしたスケッチを観ると、過酷なシベリア抑留中に故国を想い愛する人を想う「私(佐藤忠良)」がそこにいる、そのことの意味、つまり人間存在の意味を問い続けたのだろうと想像する。そして後の創作のなかでもずっと問い続けたのではないだろうか。あの圧倒的な存在感を感じさせる彫刻作品を観るとそう思えるのである。

一方、香月泰男のシベリア・シリーズの作品はとてつもなくやるせない悲愴感で充満している。その悲愴感、癒やされることのない悲愴感の漂いが私を打ちのめし沈黙させたのかもしれない。実はあのとき、もう香月泰男のシベリア・シリーズは観たくないと思った。しかしもう一度観たい、そう思いながら25年前に購入したあの図録をめくっている。そして絵画でも戦争の悲惨さを忘れさせない力を持っていると思いつつ香月泰男の作品を観ている。

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