先日、日曜美術館の「天使か悪魔か建築家白井晟一」を観た。
久しぶりに白井晟一の端正な容貌が脳裏に浮かぶ。明治生まれの孤高の建築家白井晟一(1905.2.5~1983.11.22)は、当時の多くの優れた建築家の中にあって、私にとって建築という枠を超えた特別な存在だった。学生の頃もしくは若い設計者の多くはおそらく「木造の詳細」(彰国社 編)という専門書を手に取ったことがあると思うが、私もそのひとりだった。その「木造の詳細」の中に白井晟一設計の「呉羽の舎」の図面が載っていた。それは図面というより上質の絵画、いや美しい楽譜のように思え、和室という建築様式に囚われない異質の研ぎ澄まされた空間とディテールに酔いしれたことを思い出す。
白井晟一は明治38年、京都の商家の長男として生まれる。12歳のとき、父が亡くなり姉の嫁ぎ先である水墨画家の近藤浩一路のもとに引き取られる。京都高等工芸学校図案科(現・京都工芸繊維大学造形科学科)を卒業、その後哲学を学ぶべく姉夫婦の支援を受け、ドイツのハイデルベルク大学でカール・ヤスパースの指導を受ける。しかし大学生活に熱意を持てず労働者のための社会活動に関わることになりある女性と出会う。パリを訪れていた作家林芙美子である。二人は恋に落ちる。しかしその恋は永く続かなかった。その後、シベリア経由で日本に帰国し、独学で建築を学ぶ。姉夫婦の自宅を設計することになり、これが白井晟一の建築家としての最初の仕事になり、以後珠玉の作品を多く遺すことになる。
10年ほど前、白井晟一の随筆集「無窓」を求めて繰り返し読んだものだ。この「無窓」の中の「縄文的なるもの」で自らを建築創作家という表現で書いていたが、この表現から建築に対する白井晟一の姿勢を窺い知ることが出来る。
ビキニ環礁沖の核実験で犠牲になった第五福竜丸の事件に衝撃を受けた白井晟一が誰の依頼を受けるでもなく自分で計画した原爆堂計画がある。「無窓」の「原爆堂について」という随筆に・・・私ははじめ不毛の曠野にたつ愴然たる堂のイメージを逐っていた。残虐の記憶、荒蕪な廃墟の聯想からだろう、だが構想を重ねてゆくうちに畢竟は説話的なこのような考え方をでて自分に与えられた構想力の、アプリオリな可能性だけをおいつめてゆくよりないと思うようになった。・・・と書いていた。原爆堂は円いシリンダー状の塔が宙に浮いた直方体を貫通する意匠になっていて、非道な核実験に対する抵抗の意思を込めた象徴性の強いメッセージが感じられる。この意匠を実作品の佐世保の親和銀行本店の設計に潜ませている。この建築の内部空間の吹抜上部に・・・AMOR OMNIA VINCIT(愛は全てに勝利する)・・・と刻まれている。
白井晟一は建築への究極的真摯さを持っている一方、孤高の建築家というイメージを巧緻に演出することにも長けていたという。それは当時日本の建築界を席巻していた合理主義、モダニズムといった西洋の建築思想に対する反意から時代に押しつぶされまいとする意図的振る舞いだったのではないかと思う。
親和銀行本店・懐霄館(親和銀行電算事務センター)が完成した八年後、白井晟一は京都で設計した雲伴居の建築現場で倒れ帰らぬ人となった。享年78歳だった。哲学者、書家でもあった建築家白井晟一、彼の作品は彼の容貌そのままに端正だった。、、、そして彼の生き様も。