2013年6月、東京藝術大学美術館で「夏目漱石の美術世界」という展覧会を観た。漱石が漢文学や英文学以上に精通しているのが絵画である。この展覧会は漱石文学と国内外の画家の作品との関係を具体的に漱石の小説を挙げて紹介している。ほとんどの小説に画家や絵画について暗示的にも明示的にも書かれていることがよくわかる展覧会であった。
例えば、「薤露行」はアーサー王伝説を主題にした短編でありその文脈にラファエロ前派の世紀末絵画のイメージが反映しているし、「坊ちゃん」の中で赤シャツと野だの会話の中でターナーに触れるくだりがあり、「三四郎」の中にでてくる画家原口がヒロイン美穪子をモデルに描く「森の女」は黒田清輝の作品「婦人図(厨房)」のアナロジーであるなど、漱石は絵画への深く広い造詣を有していたことがよくわかる。この展覧会を観て絵画美術のことを意識しながら漱石の小説を読む愉しみができたことは私にとって大きな収穫であった。
ところで、「漱石文明論集」の中に「無題ー大正三年一月十七日 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)において」という漱石の講演内容が書かれている。その講演で、「自分は建築家になりたかった」、しかし親友の米山保三郎に「セント・ポールズ(ロンドンの大寺院)のような家は我国にははやらない。下らない家を建てるより文学者になれ」といわれ考えた末、建築家になることを辞めて文学者になることを決心した、でも文学者になった結果どちらが良かったかは今も分からないとあった。
このエピソードはずっと私の記憶の奥に残っていて、もし漱石が建築家になっていたらどのような建築を設計しただろうかと想像する。漱石が東京帝国大学英文科に入学したのが1890年(明治23年)である。イギリスの建築家ジョサイア・コンドルが工部大学校(現在の東京大学工学部建築学科)の教授になったのが1877年(明治10年)であるから、工部大学校第一期生の東京駅を設計した辰野金吾や三菱三〜七号館を設計した曽禰達蔵が建築家として活躍した姿を見ていたはずで、漱石は一体どのような心境であったのだろうか。
しかし漱石が建築家になっていたら、私たちは漱石の文学に触れることはなかっただろう。私は漱石が建築家の道を選ばなかったことが心残りではあるが、文学者の道を選んだことに感謝する想いのほうが大きい。